武田研究室に入ると、イヤと言うほどdedicationという単語を勉強させられる。学生は私がdedicationというと「また、先生があんなことを言っている」と辟易する。

Dedicationとは何か。直訳すれば「献身」だが、日本は宗教がないので、日本語には適当な用語はない。だから私は具体的に説明する。

dedicationとは自分の仕事を捨てて、他人の仕事をすることだ」と言う。

学生は最小の努力で、大学を卒業しようとする。その学生に、突然としてその学生が卒業するのに何の関係もない仕事を「すぐやれ」と言う。それは学生にとって苦痛であるに相違ない。

そして、私の行動が「正しい」かどうかは別である。私は教育基本法第一条に基づいて教育をしているだけであり、それは教師としてのもっとも重要な職務である。

学生はいやいやdedicationをする。自分のレポートを作っているときに、全く関係ない仕事が来るのだから、学生がいやがるのは当然だ。

 でもこのことを続けていると、学生はいつの間にか、「自分のための人生」から、「人の為の人生」というものに変わる。それは優れた学生ほど、社会にでてからその実力を発揮するのに役立つ。

 「君は何のために勉強しているのか?」と私は学生に問う。「君は、君の人生を送るには十分すぎる力を持っている。それなら、君は他人の為に生きたらどうか」と問いかける。

 それまで親のお金をもらい、それで何不自由なく生活してきた学生にとっては、「自分のために自分が努力する」という概念しかない。そこに「他人の為に立派になれ」などと言われても、にわかには信じられないし、行動もできない。

 でも不思議なことだ。大学の4年で研究室に入った学生は、僅か1年半でdedicationを何気なくこなすことができる。そうなると、今度は「自分のために仕事をしている人」を見分けることができるようになる。

 彼らは力を持っている。でも社会は彼らが力を持っていると言うことだけでは評価してくれない。社会はその力が「その人、本人の為ではなく、周囲の人の幸福に貢献している」と感じて初めて彼を評価する。

 ・・・と信じて、教育を行ってきた。

 できれば私の教え子が、dedicationの心を持っているが故に、その力を正当に評価されることを教師として願っている。

 立派になって欲しい、彼の力が報われて欲しい、不満無く人生を送って欲しいと願うのは教師の共通した願いだ。

(平成20716日 執筆)