さて、Wikipediaはネット情報の中でも、客観的にあることを調べるのに役立つ。それは記載されていることが、不偏不党、正確であるということだ。
しかし、「正確」というのはなかなか難しい。まず記載ないようには「事実」と「意見」があり、どちらも人によって異なる。神様なら少なくとも事実については一つだろうが、人間は見方によって事実すら違って見える。
それを私のことを記述しているWikipediaを参考にして整理してみよう。Wikipediaが中立的立場で資料を提供し、それがネットの品格を高めたということに基づいて考えてみたいと思う。そして私のページもそれなりに工夫されていると感じる。
でも、本人としては少し違和感がある。
先回は、その一つとして、「武田邦彦」という人物を紹介するのにあたり、私自身は、そのほとんどが学術的活動の人生であったのに、昨年の一年間だけ、それも一断面だけが書かれていることにやや驚いたという趣旨を書いた。
今回は、私の著述物の内容に関する「批判」が主要な記述内容になっていること、そこに書かれていることが「私が考える事実」とはかなり異なっていると感じているところをあげていきたい。
もちろん、事実ですら人によって認識が違うので、Wikipediaに書かれていることが直ちに事実と違うという意味ではない。
私のWikipediaのページには、「主張に関する問題点」というところに、
「上記主張について、誤りや虚偽が多い、根拠としているデータが捏造である、と度々指摘を受けている。」
とされている。
私自身の感触では、私の著書に記述された事実について、批判があることは良く承知しているし、また学問にとって批判は大変、重要なものであるが、「誤りや虚偽が多い」などとの批判は全体から見ると少数で、多くの人は支持してくれていると感じている。
特に、私は特定の個人の批判と言うより、国、自治体、NHK、新聞など巨大で、強力な組織を中心として批判している。それは「学問の自由」というのは、近代社会において「権力に批判的」であることによって与えられているからである。
つまり、学問の自由や報道の自由、また言論の自由というのは、個人に対して使用されるものではなく、権力に対して自由である。
それに対して、個人への攻撃や批判は次の制約があると法律の専門かから教えていただいている。
【個人を批判できる限度】
1) 相手に反論の機会が提供されていること(つまり批判する人が、あらかじめその本人に真偽を確かめ、もし反論があれば、批判している場所で反論できること)
2) 相手がどうしようもないこと(性別、人種、出生、容姿など)は攻撃できない
もっとも、著作に事実に異なることがあり、それが著しく個人、もしくは団体にとって損害を与えるものであれば、その部分について、著者もしくは著作権を持っている人に直接、抗議をするのがルールである。
また、さらに公開の場で、本人にその理由を聞くのが良い。私も一橋大学と武蔵野公会堂で、私と意見を異なる人とともにシンポジウムをしたが、そのような場では本人から理由を聞くことができるので、前向きになる。
ネットは比較的、自由な発言が可能であるが、個人の批判にはある限界があると考えている。私自身の場合、個人を批判せざるを得ないときには、その制限として、
「その人自身を批判するのではなく(「武田は・・・人だ」というような人物批判ではなく)、その人が言っていることにだけ言及する」
ということだ。基本的にはそれに気を配っている。
Wikipediaが中立的なら、養老孟司先生と池田清彦先生のご著作に私の著作の支持が記載されているし、産経新聞には吉村作治学長が推薦文を書かれている。このようなことの内容も併記して頂くと、ありがたい。
わたしは、もともと個人の紹介にあまり人の支持や批判を中心にするのは望ましくなく、それより淡々とその個人が述べていることを示してもらいたいものである。批判する人はその人のウェブなどで自説を述べれば良いと思うからである。
(平成20年7月15日 執筆)