人間はやさしい心を持つ動物である。他人のために涙を流すこともできるし、時によってはわが身を犠牲にすることすらできる。
でも、人間の歴史は狂気の歴史である。 最近の500年ぐらいを見ても、奴隷、植民地、ナチスなど「なぜ?」と思わず声を出しそうなことが多い。
相手を見れば人間であることがわかるのに、奴隷という名前の所有物として、その人たちを船で運ぶ時に「積み荷」が重たいからと言って何人かの「奴隷」を海に投げ捨てるということもあった。
相手は独立した国であることがわかるのに、武力で占領して植民地にする。植民地では利権をむさぼり、反抗すれば虐殺する。理由はなんでも良い。現代でいえば「大量破壊兵器を持っている」とウソをついて弱い方のトップを絞首刑にする。
戦争にも理由はある。いつも理由があり、それはまともそうに見え、そして大きな被害が出ることが分かっているのに突入する。そうなりかけたら、止めるのは難しい。なんでも特定の理由に結びつけるからだ。
私は現在の日本で嵐のように吹きすさんでいる「温暖化」も狂気のように感じられる。その理由は簡単だ。簡単であるがゆえに狂気のように感じられる。
1) 現在はまだ大きな被害は出ていないし、自然の気温変化の範囲内であること。
2) 将来のことを科学が予想しているが、科学は将来を予想できないということ。
もう、すでに大きな被害が出ているなら別だが、海水面が数センチ上がったり、北極の氷が無くなるなどは何度も起きていることであり、なにも初めてではない。
だからみんなが「温暖化の被害」と言っているのは科学が予測した結果の受け売りだが、科学は将来を予想することはできない。特に気象のような複雑なことが計算機で予測できるはずもない。方程式、定数、変数など未知の部分が多すぎるからである。
しいて言えば、「ある特定の結果を出そうとして、入力を細工すれば希望の将来像が計算できる」という技術レベルにある。
この狂想曲はどこまで続くのだろうか? また、過去にあったように大きな被害を出さないだろうか? 二酸化炭素は生物にとって唯一の「命の源」なのに、それを排斥しようとするなど狂気としか思えないが・・・
(平成20年6月14日 執筆)