それまで専門書しか出していなかった私が「リサイクルしてはいけない」という本を青春出版社から出していただいたのは、あることがキッカケとなった。
それは本が出版される数年前、私が高分子学会で「プラスチックをリサイクルすると石油が余計にかかる」という計算結果を発表したときだった。私の発表は別に政治的なものでも思想的なものでもなかったが、会場から・・・記憶では50歳ぐらいの男性だったが・・・「売国奴!」と私に声をかけたのだった。
忘れられなかった。
私は別に腹は立たなかったが、単にリサイクルすると石油を余計に使うという計算結果を発表しただけなのに、そして、当時私自身が、まだリサイクルをしない方がよいのか、した方がよいのかという結論まで達していたわけではないのに、売国奴になったのだ。
その人はリサイクルの利害関係者ではないと思う。顔つきだけしかわからなかったが普通の研究者のようだった。でも日本社会はすでにNHKなどのリサイクルキャンペーンがあり、洗脳が成功して、日本人でリサイクルに少しでも疑念を挟むのは売国奴のように感じられたのだろう。
この事件があって、私は学会には期待が持てないと思って、主として主婦向けを頭に置いて書いたのが、「リサイクルしてはいけない」という本だった。この本の題名は出版社が付け、およそ10万部が売れたのだからタイトルの付け方は正しかっただろうが、私の原稿には別の名前が付いていた。
題名:「フランケンシュタインの子供たち」
このわけのわからない名前に、私の環境問題に対する考えが凝集している。
ベクター・フランケンシュタイン博士は、後に「怪物フランケンシュタイン」と呼ばれる人工的に作られた怪物の生みの親である。
怪物フランケンシュタインは凶悪犯人の死体を改造して作られ、醜い顔と凶暴な性格を持っていた。みんなは「あいつは怪物だから」と思って醜い顔も当たり前と思っていた。
でも、怪物自身は「自分も結婚して、幸せな家庭を持ちたい」と願っていたのだ。人は他人からどう見られようと、自分は自分だ。怪物フランケンシュタインは醜い、この世から早く消えろというのは他人だからそう思う。本人は違う。
怪物とベクター博士が山の中で対決するシーンがある。
怪物はベクター博士に迫る。・・・俺はなんでこんなに醜いのだ。おれは幸福な人生を送ることができない。どうしてくれるのだ。人は俺のことを怪物と呼ぶが、俺も人間だ。人並みの幸福が欲しい!と叫ぶ。
それがかなわないから俺は殺人に追い込まれる・・・それ以外、俺に何ができるのだ!と悲痛な声を上げる。
ベクター博士はなすすべもない。人間は自ら作ったものが反撃してくると、どうしたらよいかわからないのでおろおろして、つじつまの合わないことを言う。
子供に反抗される親、自分が出したゴミの驚く現代人・・・みんな、自分でフランケンシュタインを作り、それが故に苦しむ・・・私の環境問題の認識はそういうものだった。
なんで立派な人が環境問題というと平気で自分がやれないことを人に勧めるのだろうか? それは自分が生んだものだからだ・・・と私は考えたのだった。
今、東京の人たちが地方に住む人に温暖化防止を呼びかける。
今、年収、1500万円の人が300万円の人に温暖化防止を呼びかける。
二酸化炭素が原因で温暖化しているなら、東京に住んでいる人は地方の人に呼びかけることはできない。年収が1500万円の人は300万円の人に「節約しなさい」ということはできない。
もともと一人の人間はひとりであり、年収300万円の人はすでにそれだけで5分の4は節約している。
そんなことは言わなくても分かっている。
悪いことをしている人がしていない人を説教しているのだから、奇妙だが、温暖化というものは「怪物フランケンシュタイン」だからそうなる。つまり、矛盾した事態が起こるのだ。
もし、温暖化が問題なら、私たちは醜い「怪物フランケンシュタイン」を創造しなければ良いのだ。 創造主は神であり人間ではない。人間は欠陥のある生物だから、もっと謙虚になり、自分がやったことは素直に自分がやりましたと告白しなければならない。
もちろん、生活態度を変える必要があるなら、呼びかけている東京の人、年収の多い人からやらなければ意味がない。今のところ、彼らは「日本人全員が、田舎に住み、節約するようになったら、最後に、東京を壊し、自分も収入も返還しようと思っている・・・もしかすると、それも思っていない。
(平成20年6月11日 執筆)