ドイツの大哲学者ヘーゲルは「人間の知恵の限界」を次のような言葉で表現している。

・・・ミネルヴァの梟は夕暮れに飛翔する・・・

 知恵の女神ミネルヴァはすべての知恵を備えていて、その横にはべる梟もまた知恵にあふれている。その梟は決して「朝」には飛び立たないというのだ。

 毎日、朝が訪れると太陽が昇り、生物がその活動を始める。その日、一日、何が起こるかはまだわからない。やがて太陽が高く昇り、そして夕暮れが訪れる。朝方、その日一日がどうなるか分からなかったが夕方になるとすべては終わりにさしかかり、その日一日を振り返ることができる。

 その時になって梟は飛び立ち、そして上空から戦いに敗れて斃れているもの、勝利を手にして美酒に酔いしれるものを見て、したり顔で解説をする。

「あいつは・・・が悪かったから失敗したのだ」

 「あれはすごい。さすがに見通しが良いから成功した」

と解説を加える。でも、それはすべてが終わった後だからできることなのである。

 知恵は優れているように見えて限界がある。それは「物事が終わった後、それを解説することはできるが、未来を語ることはできず、まして未来を築くことなどはできない」ということだ。

 ヘーゲルがその鋭い頭脳で考えに考え、それでも知恵というものは限界があることに気がついたのだ。現在の頭で考えられることは、過去の知見に基づいているのであり、未来は過去と違う形で現れる。だから、知恵のあるものは未来を語らない。

 最近、環境問題が社会の関心を集めるとともに、学者の中でも未来を語るものが増え、また社会もそれを期待しているように見える。でも「知恵」では未来はわからない。未来は「夢と冒険」で拓かれるものであり、決して学者は未来を語らないのだ。

 先のネットには、

「研究というものは現在を覆すために活動するから、研究者は未来を語らない」

と書いたが、

「知恵は未来を予見することはできない」

というヘーゲルの言葉を引いて温暖化の学者に警告を発したい。

 私たち学者は縄文時代は現在より2℃高く、平安時代も高く、そして400年前に小氷河期があったという過去を説明することにとどめよう。

(平成2067日 執筆)