先回、温暖化の学問の(2)で、気がかりなことが二つあると書いた。その一つが、IPCCの地球の平均気温の記述が学問的に疑問があること(地球の周期的な気温上昇を無視していること)、それによって人為的な二酸化炭素の寄与が94%という事になっているので、根拠が薄弱であることを示した。
もう一つの気がかりは「日本はどうか」ということだ。
「日本」は「世界」ではない。まして、もし現在の地球温暖化が「これまで人類が体験したことがないこと」とすれば、それによって「日本はどうなるのか」という問いは日本列島に住むものとして強い関心を寄せざるを得ない。
ここに一つの問題がある。それは「観測値の問題」である。
気象庁は温暖化などのデータを出すときに、「基準となる17地点」を選んでいるが、その半分ぐらいは県庁所在地またはそれに準じるような中都市である。そして中都市が「地球温暖化」ではなく「都市化」によって温暖化していることはすでに指摘されている。
日本の温暖化を考える以前に、よって立つべきデータがないのだ。近藤純正先生が整理しておられる日本の田舎の気温はこの100年で0.2℃ほどしか上昇していないが、このぐらいなら400年前からの全世界的な気温の変化の範囲内である。
都市化による気温上昇を差し引くと、二酸化炭素による温暖化は日本では起こっていない、と結論される。この結論は特別なものではなく、単に学問的に普通に処理すれば日本は気温が上昇していないということになるという意味だ。
この頃、学問と社会、そして政治がいりくんでいて、「そんな結論を出しては困る。IPCCと違う」などと言われるが、学問は「事情によって事実が変わる」というものではない。困ろうが都合がよかろうが、事実は事実である。
そこで次の段階として、測定結果では「温暖化していない」のに、なぜ「日本は温暖化している」ということになるかということだ。対象があまりに簡単なのでかえって難しい。
このような疑問を呈すると必ず、2つの反撃が来る。
1) 事実を探求するのではなく、気象庁の発表を信用しろ!
2) 温暖化を軽視するの!
学問でなければいずれもまともな反撃だ。気象庁の権威を保たなければならないし、環境は大切だから事実をゆがめてもよいということになる。でも学問はあくまでも事実を大切にする。・・・それでも地球はまわっている・・・
IPCCが地球の気温の変化を無視したこと、気象庁の基準となる気温変化が都市化の影響を受けていることから、現在の日本人は「温暖化が進んでいるか?」というもっとも基本的なデータを見ることができない。
これはまさに10年もペットボトルをリサイクルしているのに、「リサイクル量」を見ることができないのと同じである。年金、医療、リサイクル、温暖化・・・いずれも「民はよらしむべし、知らしむべからず」というのが現在の日本である。
環境省や環境の専門家は「なんで、国民は温暖化の防止に協力しないのか?」という。国民は「東京と名古屋の間に、リニアーモーターカーを走らせて、名古屋を通勤圏にするという政策と温暖化防止はどういう関係か?政府は二酸化炭素を減らす意思があるのか?」と訝っている。
このような不信感を払しょくする唯一の方法は、データの開示と批判を許すことである。批判を許せば疑問がある人が少なくなり、意思の統一もできる。封建社会ではないのだから、「リサイクル量は知らなくてよい。分別回収だけやり、税金を払えばよいのだ」という高圧的な態度では国民はついてこない。
「温暖化懐疑派」などとレッテルを貼るのは学問ではない。
(平成20年6月1日 執筆)