人の人生には「良いこと」、「しなければならないこと」が多くある。
人に迷惑をかけないこと、命を大切にすること、人の意見を尊重すること、ウソをつかないこと、親孝行すること、社会に貢献すること・・・など数限りない。昔はこれを「道徳」という名前で括って教えた。
でも、信仰と違い「道徳」は人間が決めたものだから、「親孝行」、「兄弟相和す」などという普通なら当たり前のことも、戦争で負けたことがきっかけとなって疑われ、今では学校で教えることも難しくなった。
最近では、メタボとか言っておなかの周りが85センチ以下でないとおこられるし、ほとんど人気のないところでも喫煙するとひどいことになる。何のための85センチなのか、何が危険で人がいなくても煙草を吸うのがいけないのか、あまり説明はないがとにかく、アレコレと新しい道徳が氾濫している。
それでは、新しい道徳の一つである「節約」というのは、それらの「道徳」より普遍的に強制するべきものだろうか?
まず、「人の思想信条として節約という生き方は存在する」というのには同意できる。
私の生活は質素であり、周囲から見れば節約をしているように見えるだろう。でも、私は節約を一切していない。欲しいものはすべて買っているし、ゴミを減らそうともしていない。それでも、私が周囲から見て節約しているように見えるのは、私の生活が「ものを必要としない」からである。
私は自分のしたいことが決まっていて、それは物を買ったり、お金を使うようなことではない。お金を使えば私の生活が豊かになり幸福になるかというとまったく関係がない。私は極楽のように楽しい生活をしているが、ほとんどものを買わない。だからゴミもでない。
私にとって「節約」とは「目標」ではなく「結果」である。節約しようと生活をしているのではなく、十分に豊かな生活をすると節約になってしまうのだ。
友人に派手好みの人がいる。その人は毎晩のように豪華な食事をし、あふれるようなタオルを使って体をふく。車が好きなのでいつも買い替えてばかりいる。でも彼は私と違ってお酒は飲まないし、独身なのにあまり女性とも付き合わない。
彼には彼の生活のスタイルがあり、私には私のスタイルがある。彼の買う量は私の10倍になるだろうし、買えばゴミになるからゴミも10倍程度は出しているに相違ない。
でも私は彼に「節約」を呼び掛ける気はしない。彼は自分の人生を考えて大人として行動しているのだし、彼の出すゴミは焼却してしまえば私たちが困ることもない。
彼は私に比べて資源を10倍も使うが、普通に店頭に売っているものをかっているのだから、それはそれでよいと思う。
人間は、長い圧政の歴史を経て「一人ひとりの人は、その人が住む社会に多大の迷惑をかけない限りにおいて自由な行動ができる」という宝物を手に入れた。それが「環境」という名のもとに無残に破壊していくのを感じるからだ。
だから、私は「節約」を半強制的にさせるのは「犯罪」に近いのではないかと疑っている。自分の思想信条を理由なく他人に押し付けるのは私には犯罪と感じられる。
自分がもらった給料をその人が法律に違反せず、社会人としての規律を守って生活をする限り、「節約」を強制するということは、かえってその方が「悪いこと」なのではないか。
ある宗教にとってはとても大切なことでも、それはその人の心の問題であって、決して他人に強制すべき問題ではない。もし強制するなら十分な納得性のある説明がいるだろう。
(平成20年5月31日 執筆)