「健康」は「幸福」に決まっている。でも、実は健康は不幸でもある。それは「お金持ちは不幸である」というほどは自明ではないが、私は直感的にそう思う。
2008年5月19日のみやざき中央新聞には「精神分裂症とは友達が増える病気だ」という記事が載っていた。
「・・・それまで年賀状が3枚くらいしか来なかったんですが、精神分裂症とわかってから年賀状が60枚に増えたんですね。それで彼は「精神分裂症というのは友達が増える病気です」という名言を残したんです。」
10年以上前に精神分裂症(現在では統合失調症)と診断された患者さんのことを精神科のお医者さんが紹介している。
病気は不幸ではないように思う。それは私の直感だが、こうして具体的な例を読むとまた思いを深くする。
病気だからそれは苦しい。辛いこと、イヤなこと、閉じこもりたくなること・・・そんなことが多くあるだろう・・・辛いことは人に言いたくない、そんな惨めな時を過ごす。
でも、その中に人間は光を見いだすことが出来るし、それは病気ではないときに得られないものなのだ。
「精神分裂症」と表現してはいけない・・・などという方は気持ちはわかるが、なにか病気というものを理解していない気もする。多くの人間は好んで病気になるわけではない。運命だ。自分が病気になりたくなくても病気は向こうから来る。
向こうから来るのはそのまま受け入れなければならない。この世は自分だけのためにあるわけではなく、細菌にもウィルスも、そして自分自身を構成している体の細胞にも主義主張があるのだ。だから病気になる。
自分を襲ったウィルスにしてみれば、私への攻撃が成功しなければ死ぬしかないのだから必死だろう。私も防御に必死だが、勝負は時の運である。
私は幼少から青年期にかけて体が弱く、高等学校の頃は入学してすぐ一学期を休んだ。そんな自分だったから、「まさかこの年になるまで元気で入れるとは・・・」と感謝する毎日である。私にとっては私自身がいまこうして居ること自体が奇跡なのだ。
私がもし強い体を持って健康だったら私は確実に傲慢になっていただろうし、それは私の人生をずいぶん狭くしたと思う。私は体が弱かったこと、病気が続いたこと、何回も手術をしたことが私の人生を幸福にした。
でも、人間は頭でも体験すると同じように理解できる動物だ。自分が体験しなくてもウィルスにも人間にも生命としての存在価値があるのはわかる。そして病気は辛いけれど、人間はそれを心で克服することができる存在なのだと私は思う。
(平成20年5月26日 執筆)