ここまで長々と教育というものと学問の本質を、若干の例を挙げながら説明を加えてきた。そうした教育と学問に対して現在の日本はどうなっているであろうか?

 

すでに教育の自由についてはさまざまなところでその危機が訴えられ、事実としても危機的状態にある。教育の問題は学問よりも複雑で難しいので、ここではまず学問の自由についての日本の現状を整理しておきたいと思う。

 

 日本社会の多くは会社組織を持ち、その中で働く人で構成されている。会社は比較的、短期間の収益を問題にし、欠損が続くと倒産する。従って、「有望と思われるもの」をいかに選択し、それを早く取り込んで収益を上げるかに終始せざるを得ない。

 

現代の社会でそのような活動が、全体の何割になるかは明確な数字はないが、95%ぐらい、ほぼほとんどの活動が「現在の時点で正しいと考えられる高い効率」を目指していることは確かである。できるだけ安く良いものやサービスを提供し、新しい製品やビジネスモデルを開発して世に出すことに日々、努力している。

 

それは社会にとってきわめて重要であり、その貢献度は高い。日本が現在、有色人種の中でも際だった成功を収めているのは、他国より優れた製品やサービスを不断の努力によって提供しているからに他ならない。

 

でも、社会はそれだけではいずれ行き詰まる。

 

簡単な例で示すと、小売商というのは古くは対面販売を主力とした個人の小さな焦点であったが、20世紀に入ってあらゆる商品を一カ所に集めた巨大な小売店・・・デパート・・・が登場し、新しい概念を打ち立てた。

 

そのうち、大量に仕入れた商品を棚一杯に陳列し、それをレジで一括して精算するというスーパー・マーケットというものを着想した優れものが現れ、個人経営の小規模店舗を一掃した。このスーパー・マーケットは「良いものを安く、より多く」という小売りの基本を満足していただけに、永久に繁栄し続けると思われたが、間もなく、ごく小さな店舗で毎日、必要なものだけを販売するというコンビニエンス・ストアーが現れ、スーパー・マーケットはたちまち経営危機に陥る。

 

デパートとも、スーパーも、そしてコンビニエンスストアーまでもがすべてアメリカで誕生したものであり、日本人が着想したものではない。このように20世紀に日本人が自ら着想して社会を変革したものはほとんど無く、自動車、航空機、石油化学、テレビ、原子力、コンピュータ、レーザー、そして携帯電話に至るまですべて舶来のものである。

 

この間、日本の学問は自らが「現在の認識が誤っている」ところから出発したものではなく、「舶来の知識を学んできて、それを国民に伝える」と言うだけの後進性学問だったのである。

国立大学の偉い先生は例外なくヨーロッパかアメリカに留学した。現実にも留学しなければ教授にはなれないのが原則であった。偉そうに黒板に理論式を各先生の、その理論式は先生自身が作り出したものではなく、かつて若い頃にヨーロッパの先生から学んだものをただ自分のもののように解説を加えているに過ぎないのだった。それは明治以来の日本の大学の風景であり、日本の学術的書籍の全部であった。

 

それは後進国としての日本では仕方がなかったし、ベストの選択だった。

 

企業の研究に於いても全く同じであり、企業は常にアメリカを中心とした新技術や新しい金融、ビジネスの方法について目をこらしており、自分が自ら新しいものにチャレンジすると言うより、いかにヨーロッパのものを学び、時にそれを盗むかに全力を挙げていたのである。

 

それが行き詰まったのは1980年代だった。そしてそのころから急激に、「役に立つ学問」、「大学の独立法人化」、そして「政府による学問の管理」が始まったのである。

著者の研究が成功に近くなった頃、それはちょうど1980年代であったが、当時の通産省の課長が私の研究室を訪れ、次のように言った。

「武田さん、この研究が基礎段階で成功したら、どうしましょうか。日本ではヨーロッパかアメリカで発見され、ある程度、ビジネスとしても成功したものを持ち込んできたので、自分で研究が成功してもどうしたら良いか判らないのですよ」

 

まことに正直な問いだった。基礎研究が成功してもそれがビジネスとしてものになるかどうかは不明である。リスクが伴う。もし研究の成功を受けてビジネスをはじめ、それが失敗したらどのようにしてその責任をとるかは、まだ日本では決まっていなかったのである。

 

外国で成功した研究なら、それを技術導入して失敗してもそれは外国の技術が悪いだけであって、研究の責任はとらなくても良い。しかし、日本の国内というとそうはいかない。しかもそれまでのほとんどの技術導入は、外国に最初のプラントがあり、その成功を見てからお金で買い、それを改良するのがほとんどだったからである。

 

日本の技術やビジネスがヨーロッパやアメリカのレベルに近づき、新しい概念の研究が大学で始まったのはそれより10年ほど前だった。でも、研究のほとんどは失敗し、一体何をやっているのか判らなかった。

 

そんな状態続くと、今までは外国のものを勉強してそれを“したり顔”で大学の教授が解説をしていた頃から見ると、失敗の連続に見えた。実はそうではなく、単に今までヨーロッパやアメリカが失敗していたものが見えなかっただけだったが、日本社会は正しく状態を認識することができなかった。

 

「大学を改革しなければならない」、「もっと社会に役立つ研究をする必要がある」、「大学の先生は実にさぼりだ」という大合唱になり、さらに「巨大技術の時代だから、日本が国際的な競争に勝つためには政府が研究を主導しなければならない」と話が発展し、総理大臣の下に「科学技術総合会議」というのが設置される。

 

大学の改革も必要であるし、先生がさぼりであることも確かだ。それにある程度政府としての学問の振興策も必要だろう。でもそれは「脇道」であるということを忘れてはいけなかった。学問の王道はやはり「自由」にあるからだ。

 

それでは現実にどのようなことが起こり、国民はどのような損害を受けているのだろうか?

 

(平成2059日 執筆)