自分がお菓子を食べて、美味しいといえば美味しいけれど、それほど何も感じない。

 

 でも、そばで女の人が美味しそうにお菓子をほおばっていると、私は何も食べていないのに美味しい感じがする。2,3人の女性がキャーキャー言って、食べていると本当に食べていない私の口の中が甘くなるから不思議だ。

 

 特に、これが家庭ならなおさらで、おみやげに持って帰ったお菓子が意外に好評で家族が美味しそうに食べてくれると、重いおみやげを運んできた苦労は一瞬で無くなる。

 

 苦労を忘れるどころか、その夜は楽しく人生を味わいながらの時間を過ごすことが出来るし、そんな時は、私の時間はゆっくりと過ぎていく。

 

 

 自分は他人の為に生きている・・・わたしは長くそう思ってきた。

 

 自分は一人では生きていけない。田畑を耕し、食べ物を確保するのはできるだろうが、野山に一人だけ住んでいて、話も出来ない、テレビもない、誰もいない世界に住むなら生きていることはできないような気がする。

 

 人間は、自分が得をしようとするけれど、他人のために生きているのではないか? この疑問は若い頃からの私の疑問だった。自分のためには辛いことはできないが、他人のためならできる。家族のためなら寒くても大丈夫だが、自分なら寒いところには生きたくない。

 

 学生が苦しんでいるなら夜中まで大学にいることができるが、自分だけなら夕方の6時になるとそわそわしてしまう。

 

 妙齢のご婦人でも一人なら朝食を作るのは、時に辛いだろうが、同じ年齢のご婦人でも子供の運動会ともなると朝五時に起きて、すてきなお弁当を作るのはまったく苦痛はないと思う。

 

 人間は他人の為に生きている・・・dedication・・・私の研究室の学生は卒業するまでに何回も何回も聞き、「先生、またdedicationですか」とあきれた顔をする。

 

 自分のことをしているとだんだん元気がなくなって、疲れてくるのだが、人のために何かをすると途端に元気になる。自分が得をしようとすると何かスッキリしないが、自分が損をしても人が喜んでくれるとサッパリする。

 

 かつて私が若い頃、「困ったときの武田」と呼ばれたことがある。「頼んだら、武田は絶対に断らない。どんなイヤなことでも引き受ける」と言われたものだ。でも「イヤなこと」というのは、実は私にとっては「一番、良いこと」だった。

 

 自分が辛い思いをすると嬉しい、自分が損をすると楽しい・・・それは間違いがないが、なぜだろうか?もちろん、これまで歴史に名を残すような偉人はどの人も同じことを言っているが、それが、判っていてもツイ・・・と言うのが人間なのだろう。

 

 私は環境の仕事をしていて、環境こそがさらに他人のために生きる仕事なのに、環境で自分が得をしようとして藻掻いている人を見ると何となく不思議に思う。

 

(平成20514日 執筆)