学問の自由が保障されるだけではなく、それに対して社会がその所得の一部を負担するには、学問の自由が社会に貢献することが証明されている必要がある。

 

私はその根拠は、

「学問が人間の頭脳の欠陥をカバーすることができるため」

と考えている。

 

私は本日、とある出版社の編集部の人と出版する書籍の打ち合わせをして、その後、如水会館で旧友と食事をする。なぜ、私がそのような行動をとるかというと、出版社との打ち合わせも旧友との食事もそれをするべきだ(正しい)と考えるからであり、大げさに言えばそれらが「正しい行為」であると判断しているからだ。もし自分が「間違っている」と思えば、しないだろう。

 

このことは何を意味しているかというと、「人間というのは現在の知識で判断して、正しいと思う行動をする」と言うことを意味している。この「正しさ」はもちろん「本人から見た正しさ」であって、「絶対的な正しさ」ではない。絶対的な正しさは神様しか知ることができず、人間が判断する正しさは仮のものでしかない。

 

正しさが仮のものであると言うことはしばらく時間を経たら、それは間違っていることになる。このことは歴史的にいくらでも例を挙げることができる。中世のヨーロッパに住んでいた人は太陽に黒いもの(現在では「太陽の黒点」)があると、「自分の目にシミがある」と考えた。

 

それは正しいだろう。人間は事実をそのまま見ることは出来ない。その時の先入観に基づいて事実を見る。だから太陽が完璧なものと思っているときには、太陽に黒い点があれば、それは人間の方にシミがあると思うのだ。

 

なにが正しいかは人は判らない。真理が確立していると錯覚されている物理学も同じだ。

 

ものを手から話したら、落下する。このことをニュートンが万有引力を発見する前には、「地中にいる悪魔が引っ張っている」と解説した。この解説は間違っていない。なんと言っても万有引力が発見されていないのだから、その知識の範囲内でもっとも正しいと思われる回答を出さなければならないからだ。

 

おそらく1000年後には万有引力は否定されているだろう。

 

もう一つ。

太陽はなぜ光り輝いているかということをたった150年前の科学者は説明できなかった。それは100年前にキュリー夫人が核分裂を発見する前だったからである。

 

人間は現在の知識で判断せざるを得ず、従って、現在の知識が正しいと仮定せざるを得ない。でも、知識が変化し増加していくという現実を踏まえると、現在の知識は必ず間違っており、従って現在正しいと思うことは間違っていることは確かである。

 

社会は間違ったまま進まなければならない。たとえ最高裁判所の判断も間違っていることは間違いないし、この論文も間違っている。でも、それが人間の限界であり、また誠意でもある。だから仕方がない。

 

人類はこのことに徐々に気がつき、ある時に「現在考えていることが間違っているという信念で活動する人たちが必要である」との結論に達した。それが学問である。学問は現状を疑い、それを打破するために活動する。そしてその準備段階として、歴史と現状を分析する。だから、学問は「整理学、解析学」と「打破学」で構成される。

 

学問の一つの活動が「過去の整理、自然の観察」などがある。古典を紐解いたり、顕微鏡で微生物を観測するなどがそれに当たる。そして更に調べたり観測したものを整理し、必要に応じて理論式を作る。このような活動は一見して、まどろっこしいように見えるが、実はこのような活動を元にしないと学問は現状を打破できないのである。

 

従って、学問の大半は地道な、何をやっているか判らない活動であり、それは大きなものを生むための潜伏期間に過ぎない。かつて、著者は新しい研究グループを指揮していて、それには国家も期待して巨額の研究費を出してくれた。

 

研究の責任者であった私は毎日のように「錯形成テーブル」とにらめっこしていた。この錯形成テーブルというのは、数多くの元素ごとに、これもまた膨大な数の化合物とどの程度の親和性を持っているかを温度を変えながら測定した数値が並んでいるのである。

 

そのテーブルを収録した厚さ数センチの分厚い本はやがてボロボロになり、最初は糊で捕集し、最後はガムテープまで動員した。

 

著者の研究は成功すれば脚光を浴びる。事実、苦節15年の研究を経て、ある時に、研究成果が一斉に全国紙の一面を飾り、さらにNHKの朝の7時のニュースで当時アナウンサーだった桜井良子さんが読み上げてくれた。

 

若い研究者だった私にとって有楽町のそごうに掲げられた電光ニュースに自分の研究成果が示されているのを山手線の窓越しに見たときの感激は今でも忘れることができない。

 

でも、著者の研究を成功に導いた原動力は、あの分厚い錯形成テーブルだった。テーブルに示された膨大なデータをとるために実験を繰り返した多くの研究者は「成功しても決して社会には報われない」ことが明白な作業なのだ。

 

「基礎研究の重要性」は常に強調されるが、それが具体的に何を意味するかはほとんど理解されていない。

 

著者らの研究チームが「成果の出る研究」に費やした時間は15年にしか過ぎないが、その研究を成功に導いた錯形成テーブルの研究は、その萌芽的な研究の時期や理論家の時期も含めると150年はかかっている。

 

基礎研究とはそういうものであり、その研究を通じて複数の「成果の出る研究」が続く。本来なら、著者は研究が成功した後、それらのデータを出してくれた研究者のひとり一人に感謝の言葉を言いに旅に出なければならないのだが、そのほとんどはすでにこの世を去っている。私にできることは心の中で「ありがとう」と言うだけである。

 

このような基礎研究をもとに「今、私たちが目の前に見たり、正しいと考えられることは間違っている」という確信のなかで学問はまた日々、地味な努力を重ねる。決して成功の見通しはない。なぜ成功の見通しがないかというと「現在、自分の頭で正しいと考えていることが間違っている」という証明をしようというのだから、見通しはないのである。ただ「やってみよう」ということだけが自分を支える。

 

(平成2057日 執筆)