一年ほど前、「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」を出版したら、「独自のデータが多い」と言われた。しばらくはそれは私の本のオリジナリティが高いという意味で、褒め言葉と思っていたのだが、まったく正反対で「独自のデータだから当てにならない」と言う意味だった。
そして、テレビに出ると、しばしば「異端児」と呼ばれ、その理由を聞くとこれも「公的に発表されているデータと違うことを言う人」という意味であることも判った。
さらにリサイクルの件で、ある地方裁判所に鑑定書を出したら、その裁判で被告になっている国(日本国)が「武田のデータは国のデータと違うから、誤りだ」という反論に遭って絶句した。その裁判では国が被告であり、その被告が「自分のデータと違うから、間違っている」という論理が許されるなら、被告になっても有罪になることはあり得ない。
ところで、書籍を出すというのはかなり大変なことで、私のように科学的事実を伝えようとするときには、その基礎となるデータを自分で調査したり、計算したり、時には理論的に式を展開したりする。そして10年ほど研究して、その結果をまとめて本を書く。
たとえばペットボトルのリサイクル率というのはまったくデータが無かったので、中部地区の自治体のデータや万博の状態を調べ、リサイクルの推進協議会のデータを解析し、Kingの式を応用して理論計算をするということを続けた結果、「どうも、3万トンぐらいしかリサイクルされていない」という結論を得た。
これに数年はかかる。この場合は「公的データ」というのは回収率しかないので、私のデータは「独自」ではあるが、「公的数値と違う」ということではなかった。
私が本を書くなら、単にすでに知られたデータを解説するものではなく、「独自」の数値で、しかも「公的に発表されているのと異なる」ということが、私が執筆する本のいわば魂に当たる。学問の自由や言論の自由、そしてマスメディアの人たちに与えられている取材の自由などはいずれも「いかにして、公的なデータと異なる情報を得て、それを社会に発表するか」にかかっているからだ。
もし、公的なデータとその解説をする本なら、出版しなくてもそのデータを出している機関に「少し、わかりにくいので解説をお願いします」と言えば、その機関が解説本を出すのが筋である。それでは余り意味がない。
もともと、人のデータだけで本を出すというのは少し失礼で、自分が本を出すなら、その本にはかならず「独自のデータ」と「独自の解釈」が無ければ出版の意味はなく、また著作権というもの自体も怪しくなる。
でも、私に対する反撃を見ると、これまでの日本はお役所や公的な機関に「日本人の誠」があって、ウソをつかなかったのだろう。その結果、多くの日本人は「公的なデータには誤りがない」と考え、マスメディアの方は「公的なデータさえ使っていればクレームをつけられない」と安易に処理して来たのだと思われる。
本来は、学者やマスメディアは公的機関のスポークスマンではないのだから、あくまでも自分の研究や取材によって得られたデータに基づかなければならないと私は考えている。
また、「データの引用」ということでもずいぶん、錯覚が多いように感じる。論文や書籍は「オリジナリティがあり、だから著作権がある」ということだから、そこに書かれていることは何らかの著者の手が加えられる。しかし、あるデータに到達する時に使用したデータや考え方について、もし他人の助けを借りた場合には、それを引用するのが礼儀だ。
それなのに新しいデータの根拠を示しても「ねつ造」と言う人がいるのだから、錯覚と「お上は偉い」という伝統の傷は深い。
たとえば、京都議定書の各国の実質削減率を計算した私の下の表には引用先として「総理府統計局」とした。でも、私が示したその表の数値のすべてが総理府のデータではない。各国の温暖化ガス排出量の数値だけが総理府のもので、それを私が計算したものだが、元データの出所は示しておく必要がある。
このようないくつかの経験を通して、日本の書籍がまだまだ「創造性」という意味で発達が遅れているのではないかと感じた。多くの書籍が「すでに知られているデータを解説するもの」であり、それに慣れた読者が「はじめて公にされるデータ」にとまどったのだろう。
いつの日か、多くの書籍やテレビ番組が単なる解説ではなく、オリジナルなデータと思想からなる日が来ることを期待したい。
(平成20年5月6日 執筆)