大学で講義をいていると奇妙なことに気がつく。それは学生の多くが「自分が正しいと考えたことは正しい」と信じていることだ。
自分が正しいと考えていることは自分にとっては正しい、それと違うことを正しいと言っている友達は、彼にとってはそれが正しい・・・そのことを私から講義を受けただけでビックリしている。
「ボクは始めて、自分が正しいと思っていることが、正しくない可能性があることに気がつきました」という感想をもらうことは毎年だ。
「先生の講義を聞いて、これまで親が言っていることも正しかったのかも知れないと反省しています」という学生もいる。
もちろん、論理的には、正しいというのは無数にあって、本当に正しいことを決められるのはイエス様ぐらいしかいないだろう。つまり神様しか「正しい」ということは判らず、私たちは「自分にとって」、「今は」という前提がついている。
それを講義するために、万有引力を例に出す。
「500年前に私が皆さんに講義したとしたら、ものが落ちるのは地下の悪魔が引っ張っているからと教えただろう。なにしろ万有引力が発見されていないのだから、仕方がない。今は万有引力を使って教える。でも500年後は何になっているか判らない」と私は言う。
私たち人間は真理には到達できない。
人間は体と頭と心で出来ている。体は不十分だけれど小学校から体育というのがあり、高等学校でもクラブ活動でスポーツをする。だから一応、曲がりなりにも「体の教育」は存在している。
頭は小学校から鍛え続けている。だから体が不十分で頭でっかちの子供ができる。
それに対して「心の教育」は皆無である。心の教育というのは道徳ではない。人間の心とはどういうものか、他人はどのように考えているのか、社会で働いている人はどういう夢を持っているのか、老人は孤独なのかというような人間の心を教えることだ。
生きていけないような状態なら体が大事だし、快適な生活が出来ないなら技術を磨いて工業製品を作らなければならない。でも、これほど長寿になり、「物」にあふれているのだから、心の教育がいるだろう。
人間は心の動物だ。だから、人間の心を知ること、心が満足することを知ること、それは現代教育にどうしても必要と思う。
私の講義を聞いてから、ケンカをすることが少なくなったという学生がいる。それまではクラブの中でつまらないことでいがみ合っていたのに、相手の言うことが判るようになったという。嬉しい。
道徳ではない、心の教育ができる日が一日でも早く来るように願う。それこそがもっとも大切な環境教育だろう。
(平成20年5月5日 執筆)