私が「値段の安いものはエネルギーも資源も少ない」と言う。これには反論が多い。そこで連休を利用して何回かに分けて私の論拠を示しておきたい。

 

 まず、第一段階として、普通の市民が普通の買い物をするときのことを考えてみる。わかりやすい例が自動車である。

 

 ある人が「軽自動車」を買おうか「レクサス」を買おうかと迷う。普通は「お金」で選択する。軽自動車なら100万円、レクサスなら1000万円だ。そしてさらに普通なら「同じ金額で買えるならレクサスを買う」と思う。

 

 もし軽自動車も100万、レクサスも100万円なのに、軽自動車を選ぶ人は少ないだろう。もしかして「環境が大切だと人に説得している人」はそれでも軽自動車を買うかも知れないが、それは例外である・・・環境を標榜している人でもそんな人を見たことがない。

 

 ところで、軽自動車とレクサスでは、エネルギーも資源も価格と同じように10倍違うのか?

 

 軽自動車は約1トンの重さ、レクサスは約2トンである(ここでは数字の正確さをあまり問題にせず、ことの本質だけを議論していく)。だから、まず資源量は2倍違う。

 

 次に、私は自動車用材料を研究したことがあるが、高級車の材料は大衆車に対して高級な材料を使う。高級な材料は値段が高いのだが、それは「より高級なものを製造しようとすると、研究費がかかり、材料を選択し、工程が複雑で、歩留まりが低い」ことによっている。

 

 つまり、軽自動車に使う材料や装備はできるだけ安いものを使うので、その材料や部品を作るのに、高級車の材料や装備に対して資源やエネルギーの消費量が2分の1ぐらいになる。

 

 第三に軽自動車を作るのとレクサスを作るのでは自動車会社の開発費や製造工程の仕上げなどが違う。軽自動車はできるだけ簡単な開発と製造過程で作ろうとするが、レクサスは「金に糸目をつけずに開発に力を注ぎ、仕上げは完璧にする」ということになる。

 

 数値は明確ではないが、15倍程度かかるとして良いだろう。

 

 重量が2倍、材料や部品を作るときの資源量が2倍だから、4倍になる。それに15倍を掛けて、6倍程度の違いがある。

 

直接的にはこの程度の差があるだろう。

 

 次に、販売、アフターサービス等にも違いがある。レクサスの販売店は町のど真ん中にデラックスな店舗を構え、中には普通は誰もいない。でも万が一、お客さんが入ってくることを考えて、1000万もする車両を展示し、冷房はガンガン掛けている。

 

 レクサスを買う人はお金持ちだから、ワガママだし、環境のことなど考えてはいないから、来店してから慌ててクーラーを掛けていては怒り出す。だから、いつも掛けておく。

 

 アフターサービスも大変だ。安い車を買えば「このぐらいだな」とあきらめるところだが、1000万円もはらって不具合があるのではたまらない。だからアフターサービスも万全を尽くさなければならない。

 

 あれやこれやで、100万と1000万の10倍に厳密に同じではないにしても、おおよそそれに近い差がある。だから環境が気になる人は必ず軽自動車に乗らなければならない。

 

 まれに「値段は高いけれど、資源やエネルギーを使う量は少ない」という車があるかも知れない。たとえば「手作り乗用車」のようなもので、どこからか中古の乗用車を持ってきて、それに手を掛けて再生するようなものである。

 

 この評価は難しい。というのは、社会の例外としては存在できるが、一般的には成立しないからである。もし、日本中が「手作り乗用車」に乗るようになると、日本の生産性がガクッと落ちて、外貨が手に入らなくなり、鉄鉱石が買えないので、自動車自体が作れなくなるからである。

 

 だから、手作り乗用車は自己満足にしか過ぎない。

 

 第二に「メーカーが製造を工夫して省エネルギー、省資源で作った自動車」というのはどうだろうか? もし、従来は1トンの材料と1トンのエネルギー(合計2トン)で作っていた乗用車を、その他のものは変わらずに技術革新で半分になったとする。

 

 その自動車を工夫する前の値段で売るとすると、それは倫理違反で、もしかすると犯罪だ。正当な開発費をプラスしているなら別だが、利益率を不当に高くして売るのは社会正義に反する可能性もある。

 

 もし、技術革新で環境に良い車ができたのだから、高く売ってもよいとすると、余分なお金は自動車製造会社に蓄積され、別の用途に使われる。つまり「正当な利益」なら「使った分だけいただく」ということなので単なるお金と自動車の交換なのだが、「膨大な利益」を得るような場合には、お金があまるのでそのお金を別のことに使わなければならない。

 

 貯金しても使い手が変わるだけである。

 

 つまり「従来は200万円の自動車が、100万円でできるのだが、それを200万円で売った」という状態を仮定すると、余った100万円は「本来は消費者が使うのだが、代わりに自動車会社が使う」というのに過ぎず、「お金の使い手が変わった」に過ぎないからである。

 

 少し話が込み入ってきたが、おおよそは理解できると思う。そしてこの話の底に流れる「前提」があることを最後に付け加えておく。

 

 一つは「日本人はよくよく考えて、もっとも良い状態にある」と仮定している。つまり、ひとり一人の人がよく考えて職を選んでいるので、「無駄なことをしている人」を想定していない。これはやや価値観が入るので難しいが、そのように考えている。

 

 第二に、社会の「値付け」は全体として正当に行われているとしている。例外はあるが、競争のある社会では「適正利潤」のもとで行われているので、「かかった経費+必要最小限のもうけ」=「売値」になっているという前提である。

 

 もう一つ、これもまったく質の違うことだが、自動車を買うときに普通の人が「どの自動車が環境に良いか」と考えるデータや計算はあまりに複雑で難しいので、第一には「値段に比例して環境に悪い」としなければ判断できないである。

 

 もっともこの場合の「環境」とは、実に狭い概念で、人間は心や希望を持たないと仮定した無生物人間の環境である。レクサスは「無生物人間の環境」には悪いが「心と夢をもった人間の環境」には良いからこそ、誰もが環境に配慮する時代でも売れている。

 

(平成2053日 執筆)