競馬は現代のギャンブルの代表格だ。

 

競馬のシステムは、競馬場と馬主、騎手などが直接的に競技を運営し、自治体や競馬場の場所を貸し出す地主などが事業の背景にいる。そして、競馬で一儲けしようとする人たちが競馬場に足を運び馬券を買う。

 

レースが行われると、馬の能力に応じて「ハンディキャップ」を背負った馬がゴールに向かって走る。このハンディキャップにギャンブルの本質が潜んでいる。

 

オリンピックの男子100メートル競技でカール・ルイスがいくら速く走ったからと言って、次のレースからカール・ルイスのパンツにおもりを付けて走らせるなどということはありえない。実際には早く走れば走るほど、みんなが固唾を飲んで見守る。

 

それがスポーツというものだ。

 

でも競馬はスポーツではない。競馬はギャンブルだからオリンピックとは反対に「強い馬が必ず勝つ」のでは面白くない。なぜなら、それではレース前からおおよその順序がわかってしまうからである。

 

そこで「出場する馬が同時にゴールに入るように馬の背中に鉛をつける」という方法によって、本来、スポーツである競馬をギャンブルに変える。

 

そのために「ハンディキャッパー」と呼ばれる専門家がいる。

 

彼らは出場する馬の血統、調教の様子、タイム、体調などあらゆることを考えて、この馬は50キロ、この馬は54キロというように馬の背中に乗せる鉛の重さを決める。この鉛は騎手の服装の中に仕組まれるのだが、ともかく馬は鉛を背負って走る。

 

 もし、スタートしたすべての馬が一直線に並んで同時にゴールに入ったら、ハンディキャッパーの勝ちである。反対に大差がついたらハンディキャッパーを雇う必要はなかったということになる。

 

 ともかく、馬券を買う人は素人だからハンディキャッパーより情報も少なく、経験も足りず、そして欲に目がくらんでいる。だからハンディキャッパーが冷静に決める鉛の重さ、つまり「同時にゴールに入る仕組み」に対抗できるはずがない。

 

「下手の考え休むに似たり」で予想新聞など買わずにサイコロでも振って買った方がいい、ということになる。

 

でも、それこそ「博打(ばくち):ギャンブル」である。

 

どうせギャンブルは運試しなのだから頭を使う方が間違っているのだ。つまり「ギャンブルの第一条件」は「考えても無駄」ということである。

 

競馬というのは、だいたい一日に一一レースぐらい行われる。朝から始まって、最初は弱い馬が出てくる。未勝利、500万下などと呼ばれ、勝ったこともない馬や獲得賞金が低い馬が出場して一所懸命走る。

 

彼らは何回か出場しても勝てなければ馬肉となるから大変だ。このように最初は、命を賭けたレースを見ることができる。そしてだんだん、昼過ぎになると「何とか記念」という名前がついたレースも行われ、やがて競馬場は興奮した人々で最高潮に達する。

 

競馬好きの人がある日、大枚10万円を持って競馬場に遊びに来たとする。その日は好天で、馬場も完璧だった。途中まではダート、そして終盤は芝を使ってレースが行われ、馬場の状態は良。ハンディキャッパーも一流が顔を揃え面白いレースが続いた。

 

彼はギャンブラーだったので、後のレースにお金を残しておこうとはせずに最初のレースから10万円を投じた。そして、なんとか勝とうとして頭をひねり、ついに最終レースになった。10レースが終わった時に、彼の手もとに残った資金は5600円。最終レースに特券を五枚買い、汗のにじむ手で馬券を握った。

 

 最後の5600円がどうなったか、それは想像に任せたい。

 

 問題は、なぜ10レースが終わった時点で10万円が5600円になったのかということだ。それは「レースが良馬場で行われ、ハンディキャッパーが優れていた」という条件設定による。

つまりその日のレースは完全にギャンブルであり、単に確率的に当たるだけだったからである。そうすると、払戻金は投入資金の75%であるから、10レースが終わった後に彼の手元に残るお金は、0.7510乗に10万円を掛けるのだから5600円になる。

 

「えっ!10万円がたったの5600円?!」とガッカリしても怒ってはいけない。これがギャンブルというもので、単にその日は平均的な運しかなかったということだから。

 

 ここでギャンブルの第二条件が明らかになる。

 

それは「みんな損するが、一部が得をする」ということである。みんながお天道様の恩恵で生活する農業とはまったく違う。農業はまともでギャンブルは遊びだ。

 

 「運の良い人」は10万円が100万円にもなるだろうが、平均的には、10レースを終わると最初に持っていたお金の九十四%を取られるのだからなかなか自分が運の良い人になるのは難しい。

 

 残りのお金は「競馬を楽しむお客さん」に戻されるのではなく「自治体、馬主、調教師、騎手」に行く。もともと自治体は「競馬を収益源にしよう」と言っているし、馬主や騎手は金持ちが多い。そして、その人たちが狙いとする「お客さん」、つまり「競馬を楽しむ人」は、だいたい無一文になるのが常である。

 

 ギャンブルとはそういうものだ。

 

昔から賭場で一代を築いた博徒など聞いたこともないが、賭場の経営者はいつの世でも親分であり裕福だ。でも人間は「夢」のために生きるのだから、それでいい。

 

だいたいギャンブルで生活費を稼ごうなどという考えが間違っている。博打打ちは宵越しの金は持たないから魅力がある。

 

 従って、ギャンブルの第三条件は「賭場が儲かり、客が滅びる」ということである。

 

ここで、ギャンブルの三つの条件が出そろった。

.     勝ち負けは判断ではなく「運」で決まる。

.     多くの人は負けるが「少数の人」だけが勝つ。

.     場を提供する人が儲かり「客は損」をする。

 

実にすっきりしている。

 

ここで日本中央競馬会のために一言付け加えておきたい。競馬界では競馬がギャンブルだけではなく広く国民が娯楽として楽しめるようにすべてのレースが「ハンディキャップレース」ではない。

 

「重賞レース」「クラシックレース」などがそれであり、「日本ダービー」に代表されるハンディキャップのない実力勝負のレースを行う。そうすると強い馬が勝つのでスターが誕生する。

 

メイズイ、シンザン、ハイセイコー、シンボリルドルフ、ディープインパクト・・・きら星のように輝く名馬はこうして誕生した。でも、これはギャンブルではなくスポーツである。

 

(平成20427日 執筆)