今から150年前。明治維新の直前にアメリカ駐日大使だったハリスも次のように日本の社会を描写している。記録された年は正確には1857年だから1868年の明治維新から11年前である。

 

「彼ら(日本人)は皆よく肥え、身なりも良く、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もいない。

 

・・・これがおそらく人民の本当の幸福の姿と言うものだろう。日本は他の国と比較して、「質素と正直」に満ちあふれていて、それが、彼らの生命と財産の安全を保ち、すべての人々は質素で満足している。」

 

 素晴らしい文章だ。「質素と正直」に満ちあふれることが「生命と財産の安全を保ち」、その結果として「すべての人々が満足している」という状態を作り出したのだから。

 

 でも、当たり前かも知れない。

 

 「質素」であるということはおそらく正しい。食べ過ぎれば成人病になるし、ものを欲しがればお金に執着し、やがてはズルをして人のお金を狙いようになる。質素な生活で十分とすれば、額に汗するだけで良い。

 

 「正直」はもっと大切だろう。すこし違うが「誠」と言ってもよい。自分が精一杯働き、ウソをつくことなく、失敗すれば謝り、人に誠意を尽くせば、それは幸福になるだろう。

 

 みんなが質素で正直なら、生命を脅かされることもなく、財産を狙う人もいない。そんな理想郷などないと思うだろうが、今からわずか150年前の日本がそうだったのである。

 

 そのころ、世界はみんなこのように幸福だったというとまったく違う。同じ150年前のイギリスの描写を次に示す。

 

「貧民には床から水があがってくる地下室か、天井から雨水が漏ってくる屋根裏部屋が与えられる。粗悪で、ぼろぼろになった衣服と、粗悪で消化の悪い食料が与えられる。彼らは野獣のように追い立てられ、休息もやすらかな人生の楽しみも与えられない。」

 

 日本は徐々に江戸時代の日本の社会から、当時のヨーロッパ社会へと変化しているように見える。「オレオレ詐欺」はその典型的なものであり、「質素」も「正直」もその陰を見ることができない。

 

 それはお上も同じだ。家電製品のリサイクル偽装、紙のリサイクル偽装、年金記録紛失・・・と枚挙にいとまがないほどだ。「質素と正直」はどこに行ったのだろうか?

 

 日本はヨーロッパになりつつある。なんでもヨーロッパを学んでいることもあるので。

 

 私はあきらめない。その理由は「学生は質素と正直」だからだ。学生だからズルもするし、時に暴れる。でもそれは根が深くない。心の中に質素と正直を締まっている。だから大人がそうなれば日本の子供は本来の素質を表に出すだろう。

 

 子供は大人に遠慮しているだけだ。

 

(平成20422日 執筆)