学問の自由が持つ意味について議論する場合に、直近の戦争の反省からスタートする時と、遠くヨーロッパの大学や学問の歴史から紐解く場合がある。更に遠くギリシャ時代から論を展開することも可能である。

 

 日本で一般的に認識されている「学問の自由の意味」は、たとえば素朴な立場からは昭和89月「鉄塔」に執筆された寺田寅彦の「学問の自由」の冒頭に書かれている次の言葉であろう。

 

「学問の研究は絶対自由でありたい。これはあらゆる学者の「希望」である。」

というものだ。つまり学問の自由というものは、それを享受する学者側の希望であるという出発点であり、それ故に、

「科学者自身が、もしもかなりな資産家であって、そうして自分で思うままの設備を備えた個人研究所を建てて、その中で純粋な自然科学的研究に没頭するという場合は、おそらく比較的に一番広い自由を享受しうるであろう。」

としている。本論文ではこれを「学者からの自由」と名付けたい。

 

 そして国家や企業の研究機関に雇用されている研究者は学問の自由を持たないと言うことについて若干の感想を述べている。

 

 寺田寅彦の素朴な学問の自由論に対して、現代的、または社会的な学問の自由の論評としては、日本学術会議、学術と社会常置委員会報告「現代社会における学問の自由」(平成176月)がある。

 

ここにはヨーロッパ以来の学問の自由と第二次世界大戦前後の事情をまとめた後、多数決による民主主義と独自の見解を主張する学問との本質的な差と、現代における巨大科学と学問の自由について詳細に述べられている。

 

 また最近では横浜市立大学の問題や古くは戦前の多くの事件のたびに学問の自由について多くの人が見解を公表しているので、それらのすべてを取り上げることは不可能であることから、ここでは、論旨を明確にするために、学問の自由が大切であるという論拠には、

1)  人間の自由な精神活動を守る必要があるから(学者からの自由)、

2)  社会にとって学問の自由が大切だから(社会からの自由)、

という二つが存在することをまず示しておきたい。

 

 まず人間の自由な精神活動を守る必要があるというのは誠にまっとうな考えである。人間は精神的存在であり、故に精神活動の自由を守ることはとても大切なことである。しかし、この考え方には大きな欠陥がある。それは「確かにその通りだが、それなら自分のお金で学問をやったら」という反論に耐えられないからだ。

 

 しかし、人間の精神活動は学問だけではない。

 

家庭で家族のために美味しい食事を用意するのも、その行為に人間としての心がこもっているなら立派な精神活動である。ある小春日和の日に、ステッキをつきながら散歩に出かけるのもおそらく人間だけの精神活動の一つの形態かも知れない。

 

人間以外の生物なら「餌を採りに行く」という目的の下で動き回ることがあっても、花を愛で、思索を巡らすために「無駄な時間」を使うことはないだろう。

 

 もちろん、芸術活動や飲食を提供する仕事の中にも人間の精神活動は十分に含有されているとしなければならない。

 

 彼ら、家庭料理を作る人、散歩をする人、芸術家・・・はその行為そのものが人間の精神活動としての尊厳が保たれなければならないから、従って「自由」が必要であり、その自由を確保するために他人はその人に生活の資金、精神活動のために必要なお金を提供するべきかという問には、多くの人が反対する。

 

「もちろん、精神活動が大切であることは判るが、それはその人の考えだから、自分のお金でやってくれ」

と言うだろう。

 

一部の資産家は別にして多くの人は毎日の糧を得るために必死に働いている。もともと本人は花を愛で、書籍に目を通す生活をしたいと希望しているけれど、家族を養うために毎日、心を屈して汗水を垂らしているのだ。労働は神聖なものだが、それでもお金のために他人に頭を下げ、侮辱に耐える毎日はそれほど楽なものではない。

 

その人から見れば「人間の精神活動は大切だ。だから学問の自由を守れ」と言い、国家から税金をもらって優雅な生活をしている人に、額に汗している人が矛盾を感じるのはある意味で当然である。

 

学問の自由を守ることが大切であることであればあるほど、その自由を守ろうとしている人は自らを反省し、自分が守ろうとしている自由が神聖なものであることを自覚する必要があるのだ。

 

私の身の回りには資産家で、大きな屋敷に住み、大学を出て研究生活に入り、左翼運動中で学問の自由のために戦っている友人がいた。彼の理論は一点の曇りもなく、また自由を守らなければならないこと、それが侵されると日本の平和と民主主義が危機に瀕することなど、すべては納得できることであった。

 

でも、一つだけ、そしてそれが決定的なのだが、彼は生活をするために額に汗をしたこともなく、明日の食事が心配だった経験もない。もちろんそれは別の事柄だから、それによって彼の主張が揺らぐことはないが、本当にそれで学問の自由が守れるだろうか?と私は訝った。

 

現代の環境問題でも類似のことは多い。その一つが地球温暖化防止に関するアメリカのゴア元副大統領の書籍と彼の生活である。彼はその著書「不都合な真実」で地球温暖化の危機を訴え、本の終わりに「あなたでもできること10箇条」を掲げ、その最初に「節電」を呼びかけている。そのことと彼の家の電気代が月々30万円であり、電力量で比較すると四人家族の日本人の平均の月々の電気代の100軒分に相当する。

 

彼は「偉い人」だから、生活と信条が別々であっても問題はないという考え方もある。むしろそれが普通だろう。資産家の私の友人も同じであり、学問の自由は彼自身にとって大切で、かつそれは社会に役立つであろう。

 

でも、私は「学問ができるとか、運動神経に優れているとか、容姿が抜群である」というのは人間の持つ特性の一つであり、だからと言って「人間として優れている」として他人と区別するべきではないという考え方である。従って、私が正しいとする考え方に添えば、その友人やゴア元副大統領はまず私財を使って学問をしたり政治活動をして、それによって無一文になることがまず第一と思う。

 

人間に努力に応じたある程度の差は必要だが、本質的な「格差」は不要である。しかし幸運にして親が資産家で誕生した人は、それが故に正しい活動ができないわけではない。環境は環境だからそのまま甘受するのが適当だが、もし自らが学問の自由や環境の大切さを余に訴えるなら、まず我が身をその状態に置く必要があるだろう。

 

 少し脱線したので話を元に戻すと、学問の自由は人間の精神活動の尊厳を守るために必要だが、それは学問だけではないので、現在のように大学などの学問を扱う機関に過度に学問の自由を守るために税金を初めとした公的な資金を投入するのは問題である。それは社会の上流階級を固定する結果を生むからである。

 

大学に飽食する人の多くが社会的に高い立場にあり、その平均所得は高い。でも彼らは「自分たちは能力があるから良い生活が保障されるのは当然だ」という立場をとっている。それでは学問の自由は守ることができない。

 

なぜなら、学問の自由とは人間を解放することであり、それはとりもなおさず人間の精神を解放することだからである。そこに人間の貴賎を持ち込んでは問題は崩壊する。

 

それでは学問の自由というのは、「生存の自由、生活の自由」などと同列なものであろうか?新憲法はなぜわざわざ学問の自由について明記した条文を持っているのだろうか?それはヨーロッパ、特にドイツに於いて学問の自由が尊重され、それが軽視されたが故に戦争に突入したという苦い経験に基づいているのであろうか?

 

学問の自由を論じる多くの書物がそのような論理で構成されているし、それは正しいかも知れない。

 

しかし著者は異なる立場をとっている。

 

信教の自由と学問の自由は人間の精神活動のための社会の保証として同類のものである。どの宗教を信じようと、それをある社会的活動で許される範囲で行動しようとそれは人間の精神活動として認められる。

 

しかし、その活動に対して政府が「活動資金の提供」を行うことはまれにしかない。それは「自由を守る」ということと「資金提供を受ける」ということは基本的に異なるからである。宗教に対する政府の関与は、精神活動の重要性を認めて、活動資金についての税金を免除すると言う程度に止まる。

 

これに対して学問の自由については、当該関係者は、社会は学問の大切さを認めて、資金を提供するべきであり、その上で自由をも認めるのが正しいと主張する。国立大学は税金で運営されなければならない、それは自由な学問の活動をするのに必要だからであるという論拠はここに根ざしている。

 

でも、すでに繰り返したように、社会は「額に汗して今日の糧を得る人たち」によって構成されており、その人たちは「裕福で働く必要がないので、学問をしている」人に渡すための税金を取られる必然性はないである。

 

たとえば、日本の国立大学と言うところを考えてみよう。私は国立大学に奉職していたから、その一員であり、正に学問の自由を享受しつつ、税金で給料をもらい、更に格安の官舎に居住していた。そこで私は多くの世離れした社会を見た。

サラリーマンであれば、朝早く家を出て夜遅くまで働き、高い家賃と子供の教育に必死になり、その上、夫婦あい協力して僅かでも持ち家のために貯金をしなければならない世代の若い夫婦が、大学の官舎では悠然と生活をしているのである。

 

大学の独立法人化の前、大学の教官であり公務員である若き彼は、朝になると子供を保育園に連れて行く。程なくして奥さんがどこかに出かけていくが、おそらくは奥さんも働いておられるのだろう。その若き教官はお子さんを保育園に預けるともう一度官舎に帰ってきて、それからおもむろに大学に向かう。

 

その奥さんが私の家内にこういった。

 

「うちの主人はとても助かるの。子供を保育園に連れて行ってくれるでしょ。本当に男女共同参画を支持しているのよ」

 

家内は私に言う。

「だって、みんなそうしたいけれど、若いうちって旦那に一所懸命、働いてもらわないと生活できないのにね。旦那さんがお子さんを保育園に預けてから勤めにいけるなんて大学だけよ。」

 

もちろん、多くの人の生活が豊かになり、子育てが楽になることは大切であるし、それを大学の先生が率先しておやりになるのも正しい。でもそれは社会が大学を特別扱いしているからであって、もしそのような生活を享受するなら、社会に対して大きな貢献をしなければならない。

 

その先生の年俸は800万円程度と推定されるし、その官舎は市の中心部にあるにもかかわらず、その賃貸料は月19千円だった。

 

学問の自由が保障され、かつ世間一般より高給をもらい、朝1030分に出勤して良いなら、それは特別待遇である。だから、「なぜ、学問の自由はそれほど大切なものか」について明確に社会に発信しなければならない。

 

それが「自らの精神的活動を支援する為に社会はそのぐらいは普通のことだ。だって、私は勉強ができるから」というのでは論拠にならない。勉強ができるということは社会に良いことかと言えば、必ずしもそうではないからである。

 

勉強ができると言うことは、普通の場合は他人を圧迫する。もし勉強ができる人がいなければ、余り努力しなくても社会である地位を獲得できるが、勉強する人がいるとその人が邪魔をする。

 

人間は自分が良ければよいと錯覚するが、社会はそれぞれに人が自分が良ければよいのであり、その点で勉強ができる人は困りものである。

 

そうすると次に明らかにしなければならないのは「なぜ、彼は自分の力でなにもお金を稼いでいないのに、他人のお金を貰えるのか」という点である。それを明らかにしたい。