レ・ミゼラブルの一場面に、市長になったジャンバルジャンのところに新任の警察幹部を案内するところがある。この出会いが後の物語に大きな影響を与えるのだが、その市長の家は下の写真のように描写されている。

 

 市長の家.jpg

 

「普通の農家と同じじゃないか」

と新任警察幹部は言う。

「そうなんです。少し変わった人です」

という会話が交わされる。

 

 この時代は必ずしも民主主義が徹底していたわけではないから、会話としてはまともかも知れない。貧しい家に住む市長を「変わっている」と表現するのは普通だろう。

 

でも最近の日本の自治体や霞ヶ関に行くと、市長や局長はいやに立派なところに住んでいる。

 

 人間には少しの「差」はあっても良い。それは、人間の心の中にまだ動物的な感覚が色濃く残っているので、自分がよりよい生活をしたいという希望が活動の原動力もなるからだ。

 

 でも、市長や中央官庁の局長には、立派な家や高い給料は不要に思われる。一人は名誉を取り、一人は国の政策を動かすという大きな仕事ができるから、それに加えて、お金での差は要らないだろう。

 

 お金は名誉ややりがいと違うことがある。時に人に屈辱的に頭を下げる。その代わり“お足”をいただき、それがその人の人生の夢の一部を充足する。

 

 ところで・・・

 

 「民が主」という民主主義でも「お上」と言い、「天下り」と言う。完全な差別用語だが、今のところ新聞やテレビもこの用語を使っている。

 

本当に日本が民主主義になったら、「お上」とは民衆のことであり、「天下り」というのは民間の人が役所に勤めたときのことを指すようになるだろう。

 

 その時代になると、「偉い人だから立派な家に住む」ということはなくなり、収入の差は10倍ぐらいにとどまるようになっているかも知れない。

 

 人間は幻想を抱く。立派な家、高価な食事は決して生活に喜びをもたらさないし、その人の人生は空虚になるばかりであるが、それでも人間は錯覚する。

 

 そしてその錯覚はやがて徐々に姿を現し、その人が人生を終わるときには空虚な思いでこの世を去ると偉人は口をそろえて言う。

 

 ジャンバルジャンにもまた苦悩が訪れるが、人生のなんたるかを彼との戦いで知ったあの新任幹部はやがて自責の念の中に自殺する。私たちの人生とは「物質」ではなく、「精神」であることを知るべきなのだろう。

 

(平成20413日 執筆)