プラスチック・リサイクルが見直されるようになってきた。まだ見直しは初歩的な段階だが、それでも、これまでのように「リサイクルに疑問を言ってはいけない」というようなまるで軍国主義のような言論統制は無くなってきた。

 

 10年ほど前、私が高分子学会という純学問的な学会で「プラスチックのリサイクルは資源の浪費になる可能性がある」という発表をしたら「売国奴!」と会場から声が出たように、到底、普通の人が疑問を呈するような状態では無かった。

 

 かなり長い間、資源学の勉強をし、さらに環境の問題について研究を重ねてきた私は、そのような非難や厳しい質問にも対抗することができるが、分別に努力している普通の庶民が、その道の専門家や自治体から非難されたら、反論するのは容易ではない。

 

 本当は実施している自治体や、理論のバックボーンを作った環境研究所などの専門家がみずから誰でも理解できる正直な数字や説明を行うべきなのだが、それをしていないので、ここで若干、整理をしてみることにする。

 

 内容的には20073月にやしきたかじんの番組のあとに問い合わせが多かったので、特設スタジオを設けて説明をしてきた内容と一部、ダブることもある。

 

 また、2008年になって紙のリサイクルの偽装が発覚し、プラスチックのリサイクルも徐々に見直されてきたことから、1年前より全体の議論のレベルは上がってきた。

 

 ここで、整理を再開するもう一つの理由は、私の書籍などを読んだ方が自治体でリサイクルに疑問を呈すると、自治体が「その考えは間違っています」というような説明抜きの返事をすることが多く、それで困っている方がおられることである。

 

 さらに、これまでリサイクルを信じてやってきた方の中にはリサイクル自体を否定するのに大きな心理的抵抗感があるのも事実である。利権や名誉のためにリサイクルをしてきた人もいるが、多くの人はリサイクルが環境を改善すると信じて、善意でやってきたのである。

 

 たとえば、ペットボトルをリサイクルして、トレーにして活用している人にとってみれば、捨てられるペットボトルを現に、再資源化して立派なトレーにしているのだから、それを非難されては我慢できないだろう。

 

 その人たちは、国の方針に従って真面目に努力しているのに、突然、「リサイクルは環境を破壊する」と言われ、データを示されても俄には考えることもイヤだろう。それが人間というものだ。

 

 私のような学者は自らが心血を注いでやってきたことを疑うのに慣れている。学問は現状を否定するのが本筋であるから、いつも「自分がやっていることは間違っていないか?」、「自分が正しいと思っていることは間違いはないか?」と疑っている。

 

 私は長く技術の研究をし、技術は日本に豊かさと長寿をもたらしたと信じていた。でも、資源はなくなり、格差は拡がってくると、果たして私は技術に身を捧げてきたが、それが正しいのだろうか?という強い疑問を感じている。

 

 「廃人工学」と私が名付けた一連の工学は、人間を廃人にすることに懸命になっているように思われる。私は、自らの工学を自らが否定しなければならないと考えている。

 

 でも、普通の市民は日々の生活に追われているのだから、いちいち、自分の仕事を疑っていては生活はできない。とりあえず、一所懸命やるのが正しい。

 

 それでも、時には自らの仕事に疑問を感じ、それを根本から批判してみるのは良いことのように思う。批判に晒されない仕事は危険であり、何かの拍子に崩れ去るかも知れないからである。

 

 さて、前置きはこのぐらいにして、プラスチックのリサイクルについて少し整理を進めてみよう。ここで整理するプラスチックのリサイクルは特別に断らない限り、また統計上、別々になっている場合を除き、ペットボトルを含むものとしたい。

 

・・・ここから本論・・・

 

 まず、資源学や材料工学からは「リサイクルは不適切な方法である」ということはすでに学問的には確定している。でも、礒がないで欲しい。これまでの学問で否定されているのだから、実際に行われているリサイクルが直ちに不適切であると言っているのではない。

 

 たとえば、物体は普通は空を飛べない。重力が大きいからだ。だからかつて背中に羽をつけて崖から飛び降りた人の多くが墜落死をした。でも、現代の航空機のように特殊な翼の形をしていれば揚力を生じて空を飛ぶことができる。

 

 つまり、従来の学問で「ダメ」と判っていることでも、それを覆す学問的な理論があれば、不可能なことが可能になる。それは学問の歴史が物語っている。

 

 リサイクルに関して言えば、「エントロピー増大の法則」があるので、もともと、学問的に成立しない。これはかなり前から槌田先生などの学者が警告を出していることで、100年も前から確定していることだ。

 

 「これまでの学問でできないから、ダメだなどと言っているから学者は困る」という反論があるが、現代の社会で「学問的に否定されていてうまく行っているもの」

などはほとんどない。それが科学的なことならなおさらである。

 

 私たちが現代の社会で使っている物・・・テレビ、自動車、ポット、携帯電話から農業、食品にいたるまで、現代の学問と矛盾しているものはない。すべて科学的な合理性を持っている。

 

 また常識では意外に思えるものでも、学問的には十分な合理性があり、その専門の学者の間で意見が違うなどというものは存在しない。

 

 でもリサイクルなどの環境問題だけは特別で、学問的に否定されるものが社会で普通に行われている。とても異様に感じられる。

 

(平成20329日 執筆)