デカルトの還元論、ベーコンの科学への信奉、ガリレオの観測に対する信念、ニュートンの力学、そしてダーウィンの進化論に至るまで、近代はそれまでの人類の無知蒙昧を一掃してくれたように見えた。

 

 私も若い頃、そう思った。

 

ガリレオが法廷でつぶやいたとされる言葉、「それでも地球は回っている」という言葉に感激したのはその頃だった。でも、今は違う。自分の目で見たもの、自分の体で感じたものは、「自分自身という歪んだプリズム」を通したものであり、決して事実そのものではないことを知った。

 

 今ではあの感激した言葉が「なんで、ガリレオはそんなに自信があったのだろう?」という疑問として強く私には響く。

 

 ダーウィンは、人が神に似せて作られたのではなく、サルから進化したのだということを納得しない人たちに対して「勇気を持ってみれば真実が見える」といった。たしかにそうだ。人間はエゴというプリズムを通してみているので、自分の尊敬する祖先がサルであることに納得しない。

 

 私も若い頃、そうだった。

 

そして今でもときどきこのダーウィンの言葉を講演に使う。でも、本当はそうは思っていない。今の私ならこういうだろう。「事実は勇気を持ってみなければならないが、いくら勇気を持っても自分のエゴを消すことはできないから、やはり私は真実を見ることはできない」と。

 

 人間はすでに進歩しているように見えるが、実はまだ初歩的な段階のように感じられる。確かにデカルトが誕生し、ダーウィンが進化論を書くことによって、若干の進歩はした。それは「物事を分解してみることもできるのだよ」という一つの方法を示してくれただけだ。

 

 でも、分解して見たものは真実ではないだろう。

 

 私たちは富を追求して環境を破壊し、平等を追求して格差を生み、権利を主張して弱い国家を数100年にわたり圧迫してきた。現代の日本社会は本来あるべき姿から遠く離れ、ストレスは増大し、まるで集団でみずからの命を絶とうとしているようだ。

 

 ある秋の夕暮れ。赤い夕陽が山の端に沈み、目の前の小さな小道を砂埃を立てて、ヒツジの群れが通っていく・・・私は風呂上がりの体を休めながら、微かな砂ほこりの臭いの中でビールを傾ける・・・そんな幸福なときがあろうか?

 

 でも、私は遠く離れている。そんな幸福を手に入れようと思えばいとも簡単な収入と科学を持ちながら、遠くに行ってしまった。収入も科学も私の幸福にはほんの少ししか役に立たないのだろう。

 

 それでも私は科学が欲しい。トイレは汲み取りより水洗が良い。冬の寒い日は瞬間湯沸かし器が欲しい。病気がちのお年寄りは車で病院に連れてやりたい。そして私は一度、失明した右目の視力を今は医学が回復してくれた。

 

 科学はありがたい。そして同時に私たちを幸福から遠ざける。私たちに進歩する力はあるだろうか?

 

 この問に対して、私はきわめて楽観的だ。これまでの歴史を見ると、悲惨な出来事、無意味な行為は数限りなくある。でも人間はそのたび事に犠牲を払いながら進歩してきたように思う。進歩という概念自体が難しいが、進歩してきたと私は思う。

 

 私が今、悲観的なのは私自身がすっかり近代の「還元主義」に染まり、次の時代を開けないからだろう。きっと、次世代は次世代の人が開いてくれるに相違ない。それまで、私たちは大きな失敗だけをしないようにしたい。

 

 今、私の眼前にある不安は「飢餓」と「温暖化」だけだ。飢餓は格差の象徴であり、温暖化は富の象徴だから。いずれも自然科学の発達が社会科学の発展を追い越し、力のあるものが「大砲」で弱いものを痛めつけ、膨大な「生産力」が他の生物を痛めつけている結果だからだ。

 

 私は解決したい。

 

 その前にやることがある。それは私たちの目をこの複雑な利権社会からいったん、解き放すことだ。政治課題、経済課題、そして環境問題のいずれも私には利権社会の幻想・・・事実ではなく私たちはスクリーンに映った幻想を見ている、その幻想は利権から発生している・・・と思っているからだ。

 

 温暖化を台風に擬し「台風はボートでは止められない」と私は言う。温暖化が利権であり、ボートが犬死にならその通りであるし、温暖化が事実であり、ボートは新しい時代に立ち向かう勇士なら間違っているだろう。

 

 私の旅は長い。今の私はきっと間違っているだろう。でも、スタジオに煌々と照明をつけ無限のエネルギーを使いながら、「あなたには何ができますか?」と問いかける気持ちの悪い人たちにはなりたくない。

 

 誠実さ、それだけがもしかすると私に少しの明かりをつけてくれるかも知れない。

 

(平成2035日 ある方からのメールに触発されて執筆)