トヨタのクラウンの出力が28馬力だった頃、フランスから輸入した小型のルノーがよく坂道でエンコしていた。車は高嶺の花だったけれど、同時にすぐラジエーターから蒸気が噴き出すやっかいなものでもあった。

 

 欲しいのは馬力だった。頻繁に起こるパンクも困ったものだったが、なんと言っても強いエンジンが欲しかった。だから車のベストワンというと馬力の勝負で、100馬力を超えた頃は本当にびっくりしたものだった。

 

 人間の頭は切り換えにくいらしい。

 

 すでに乗用車の馬力は必要な力を遙かに超えているが、車の雑誌にはあいかわらず車の馬力が表示されている。表示されているどころではない。2007年乗用車ベスト10にこともあろうに「馬力」という評価項目があるではないか!

 

 車の雑誌には、馬力、400メートル加速、低速トルク、サスペンジョン、静粛性、操舵性などが並んでいる。まるで、30年前、そっくりである。

 

 21世紀の日本の車の性能も品質も世界一で、ほとんど故障もしないし、長持ちもする。そのことは必ずしも悪いことではないが、私から車を運転する楽しみを奪ってしまった。

 

 故障するのが良いわけではないし、運転しやすいのが悪いわけでもない。ナビがあった方がないよりも格段に不安感がない。決まった時間に見知らぬところに必ず到達させてくれる。それが車の最低の条件のように・・・

 

 でも、また私の人生から「車を運転する喜び」は確実に奪われた。車が好きな人にとって見れば、車は自分をA地点からB地点に移動させる物体ではない。それは夢であり、ときめきであり、エンジンの鼓動であった。

 

 自分と共に愛車は生きており、A地点からB点に移動する時の友であり、友人であり、そして愛犬だった。

 

 でも、その車好きの人が読むであろう雑誌のランキングは、車の楽しさが評価項目に入っていない。エンジンを開けるとキャブレーターのネジでアイドリングを調整できますか? エアフィルターの掃除は自分でできますか? 後ろのトランクを開けるとトランクの後ろに突起物があって気をつけなければなりませんか?・・・みんな愛車には必要な条件だ。

 

 私はつぎのような車がベストワンだ。

 

 最低でも10年は乗った車、床に少しの隙間があり車の下の道路が見える車、時々エアコンの調子が悪くなり配線をチェックしなければならない車。もちろん、窓はグルグルと手で回さなければならないし、ガソリンを入れるときには後ろに回ってエンジンキーで蓋を開けなければならない。

 

 「技術の進歩」とは人を廃人にするものではない。技術は人のためにあり、人はその人の過ごす時のためにある。かくして私は、あれほど楽しかったドライブは単に「どこかに行く」と言うことだけになってしまった。

 

(平成2033日 執筆)