60年ほど前、日本は戦争をして、敗れた。日本が戦争に敗れた原因にはいろいろあるが、その一つとして「教養がないから」と言われた。戦後の大学に教養部が置かれたのは、この直感によっている。

 

 しかし、その試みも40年ほどしか続かず、すでに20年ほど前に大学の教養部は崩壊した。崩壊の原因の一つは文部省の政策であり、もう一つは大学の教員自身の問題であった。

 

 その詳細は機会があれば後に書くとして、ここではそういうことがあったこと、教養部が崩壊してみると、「戦争に負けたのは教養がなかったから」という判断も、「必要とされる教養とは何か?」が十分に議論されずに、誰かが「教養がなかったから負けたのだ」というと、それだけで「空気」ができてしまい一気にそれが社会的な動きになったことが真なる崩壊に原因だったように思われる。

 

 廃棄物貯蔵所の問題もほとんど同じような経過を辿っている。

 

 廃棄物貯蔵所から毒物が流れる、それが社会的な問題になって人々の関心が廃棄物貯蔵所に向けられる。高度成長でゴミが急増して廃棄物貯蔵所がまもなく満杯になると報道される。

 

 ゴミが捨てられなくなると、町中がゴミに埋まって生活ができなくなるという恐怖に陥れられる。もともと家庭から集めてきたゴミをそのまま自治体は投げ捨てていたのだから、少し工夫すればよいのだが、それも為されない。

 

 使う物は減らしたくないという「欲望」と、ゴミがあふれて街が臭くなったらどうしようという「恐怖」が幻想を拡大した。

 

 冷静に考えれば、家庭からのゴミを焼却すれば容積が10分の1以下になるのだから、とりあえずゴミを焼却すれば10年の寿命の貯蔵所は100年になるのだから、こんなに簡単な解決策はないのに、それも封じられた。

 

 「プラスチックの入っているゴミは焼却できない」という「ウソの事実」が報道される。「ウソの事実」という耳慣れない言葉の意味は、「本当はウソであるが、見かけは事実」というもので、このシリーズにも書いた「太陽が地球の周りを回っている。見れば判るだろう!」というのと同じ種類のものである。

 

 つまり、「プラスチックの入っているゴミは焼却できない」というのは事実だった。それまで家庭の生ゴミと紙を燃やしていた自治体の焼却炉は、それよりカロリーの高いプラスチックが大量に入ってくると、温度が高くなり炉の材質が持たない。

 

 だから、「焼却できない」というのは事実だった。でも、それは同時に「ウソ」である。

 

 その当時、自治体の焼却炉は家庭用小型焼却炉を少しい大きくしたようなもので、本格的な焼却施設ではなかった。その装置に使われている材料は品質の低いものだったので、プラスチックは燃やせないということだ。

 

 何がウソかというと、「焼却炉でプラスチックが燃やせない」というのではなく、「プラスチックが燃やせない焼却炉しか持っていない」ということだ。だから、「燃やせる焼却炉に交換すれば燃やせる」というのが真実だ。

 

 実際には、新鋭焼却炉に代えるのにどのぐらいの費用がかかるか、それで廃棄物貯蔵所の寿命が100年になることの社会的な意味があるか、ということが検討されるべきだった。

 

 新鋭焼却炉は余り高いものではないし、その後のリサイクルなどの経費から見ると断然、安価なのだが、そういう議論すら無かった。

 

 実は深層に幻想を喜ぶ人たちがいた。

 

 それは、自治体のゴミを担当している部署と、それまで品質の低い焼却装置を納入していた業者との癒着である。長い間、自治体は昔ながらのゴミを焼いていて、それに適した焼却炉メーカーとのつながりがあった。

 

 私は「官が、「李下に冠をただす」ときには、情報を開示せよ。そして情報が開示されなければ、国民は推定を述べて良い」という原則を主張しているが、この場合には、「おそらく、自治体の職員はたびたび業者から接待を受けていただろう」と言ってよいと思う。

 

 なぜかというと、もしあの時、自治体から「焼却炉を代えれば、廃棄物貯蔵所の寿命は100年になります」というアナウンスがあれば、市民の損害はかなり少なくなっていただろうからである。

 

 マスメディアは「廃棄物利権」を守る側に回った。その理由はマスメディアが直接、利権と関係していたのではなく、「プラスチックを燃やせる」というより「燃やせない」と言った方が読者や視聴者の「恐怖」を煽ることができると考えたのだろう。

 

 かつて、出版社も新聞社も、そして記者も貧乏だった。新聞記者は、昼も夜もない取材に駆け回り、冬はコートの襟を立てて取材に励んだ。そして、「なわのれん」をくぐり、安い酒を一杯ひっかけるのが、記者魂だった。

 

 でも、日本がお金まみれになると、マスメディアも「事実を伝えるために、貧乏を甘受する」という気風は薄れ、「儲かることを第一とする」ということに変わった。

 

 記者だけではない。私のような学者でも同じ道を辿った。かつては、お金持ちであることは学者の恥だった。それは「現世で評価されるような学問は価値がない」というプライドがあったからだ。

 

 ところが、最近では「役に立つ研究」なるものが登場して、学問の世界でもお金儲けのために正確な表現をせず、「なんとか言い訳ができるギリギリの表現」が多用するようになってきた。

 

 記者を非難するなら、私たち学者も非難されるべきだが、それにしても「日本人の誠」が失われていくのは哀しい。日本人としての誇りを持てなくなってくる。

 

 お金より、自分の仕事に対する忠誠心、学問の厳密性への信頼、記者の事実の価値の確信・・・そういったものが重んじられる社会に戻したい。

 

 (平成20227日 執筆)