高度成長というのは、一方で家電製品も増えて生活が便利になったのだが、同時に自分たちの身の回りの毒物も増えた。

 

でも、そんなことは夢にも思わないので、大量に排出されるようになったゴミは自治体で注意されることなく、ゴミ捨て場に山のように捨てられ、それはやがて漏れだして社会的問題になった。

 

 おりしも日本社会は「権利意識」が高まってくるのだが、社会における庶民の権利意識は、庶民の平均給与の増大がその前提になる。オルテガ・イ・ガセットが「大衆の反撃」の中で描写しているように、大衆の進歩は大衆自身の生活レベルの向上が前提である。

 

 つまり、大衆の権利意識の高揚には教育程度が上がることも必要であるが、それ以上に庶民の「自信」が大切である。人間は自らの命が奪われ、もしくは生活の基盤がなければ、自らの主張を述べることはできない。

 

 高度成長期を通じて、日本人は物質的に豊かな生活を手に入れると共に、ひとりの国民としての自信を持ってくるのである。それが、「ゴミ箱から有害物質が流れ出るとは、なんと言うことか!」という怒りとなって現れた。

 

 もともと、ゴミ箱からなぜ有害物質が流れ出るようになったかというと、それは庶民が使う物に有害物質が含まれていたからであり、自分で有害物質を出したのに、それが流れ出たといって文句を言うというワガママな論理だったのである。

 

 でも、大衆が自信をつけ、権利意識が高まったのは、明らかに進歩であり、決して悪い方向ではない。それまで、親方の言うとおりに頭を下げて生活をしていた多くの日本人が、ひとりの人間として自ら判断しようとし始めたのである。

 

 「権利の主張」が新たに発生する場合、主張する人が、どの程度の参加意識を持っているかでかなり言動は変わる。たとえば、中学生が親に反抗する場合が、一つの典型的な例である。

 

 勉強を熱心にしない我が子を見て、親がごうを煮やして叱ると、「そんなことを言うなら、俺は高校なんかに行かない」というのが一つの例だ。その中学生も小学校の頃には素直に親の言うことを聞いて勉強していたのに、「知恵がつく」とそれが一時的に、角度の違う方向に進む。

 

 もちろん、その中学生の人生は中学生のものだから、勉強しようが高等学校に行こうが行かなくても、それは本人の自由であり、その利益も損も本人がかぶる。だから親の言うことより中学生の言うことの方が筋は通っている。

 

 でも、もう一つ引いて考えると、中学生が勉強しなかったり、高等学校に行かなくても良いと言っているのは、別にその人の長い人生を考えていっているのではなく、とりあえずイヤな勉強をしたくないと希望を述べているに過ぎない。

 

 時には親が永久に生きていて歳も取らず、自分は一生遊んでいられると錯覚している場合もあるぐらいだ。

 

 高度成長期の頃の大衆もまた成長途中の中学生と同じだった。だんだん自分の生活が安定し自信もついてきてみると、今まで我慢してきたことが我慢できなくなる。もともと廃棄物貯蔵所から毒が流れ出すことを我慢していたことがおかしいのだから、文句を言うのは当たり前である。

 

 しかし、廃棄物貯蔵所を管理している市役所にとって見れば、自分たちは昔と同じようにやっているのに、市民の方がゴミを多く出すようになり、おまけにそのゴミの中に今まで入っていなかった毒を入れて出すのだから、悪くなったのであり、それはとりもなおさず市民そのものの責任であると思う。

 

 市民と行政の間に対立が無く、それぞれが参加意識があれば、市民は「私たちがゴミを増やし、毒が多いゴミを捨ててごめんなさい」と言うだろうし、市役所も「どんなゴミが来ても処理するのが、我々プロの力だが、残念ながらそれができないので、すみません」と言っただろうが、双方が権利とさぼりを主張するだけだった。

 

 ゴミは市民が出すのだから、本来は市民が自分で片づけなければならないのに、そのイヤな仕事を市の清掃部の人がやってくれているだけだ。もちろん税金を払っているが、人としてみれば自分のゴミを片づけてくれている人に文句を言うのはおかしい。人のホッペタを税金という札束で打つようなものだ。

 

 タクシーの運転手さんから時々愚痴を聞くことがある。タクシーは乗ると料金を払うので、お客さんの方は「料金を払うから、乗せてもらって当然だ」という意識になる。

 

 でも、お金を払うから何でもやれ、というのは主人と奴隷の関係であり、人間と人間の場合は、どのような立場の違いがあっても、まずは対等であり、タクシーの運転手はお客さんを運び、お客さんはお金を払って運んでもらう。

 

 無事に目的地に着いたら、運転手はお金をもらって「ありがとう」と言い、お客さんは運んでもらって「ありがとう」という。そんなことは当たり前である。お金は単に「等価交換」であり、決してお客さんが過剰に払っているのではない。

 

 「運ぶ」と「お金」は同じ価値であり、相互にどちらが上とか下とか言うことはない。もしも正規の料金の10倍も払えば少しは上限関係ができるかも知れないが、「釣り銭はいらないよ」ぐらいなら、感謝の意味の範囲だ。

 

 このタクシーの例でも判るように、人間は自分が可愛いので、しょっちゅう、錯覚する。その一つが廃棄物貯蔵所からの毒の流出だったのである。

 

 それでも高度成長の跡にバブル景気がやってきたので、廃棄物貯蔵所の問題は一部の敏感な人だけが問題にしたぐらいで、社会的にはまだ大きな話題にはなっていなかった。それが表面に出てくるのは、バブルが終わってからだった。

 

(平成20226日 執筆)