ひとりの人間が感じる「多い少ない」と、社会全体の多い少ないとはかなり違う。たとえばひとりの人間が広々とした海原の前に立つと「なんと、海洋は大きいのだろうか!」と驚くがそれが日本海なら世界の海の中でもそれほど大きい海域ではない。
日本の国土は37万平方キロメートルあり、人口は1億人を超えるが、この2つの数字はいずれもひとりの人間が直感的に捉えられるような対象ではない。
しかし、主婦は確信があった。これほど多いゴミを出したら、間違いなくゴミ箱は満杯になるだろう・・・。そしてそれは現実にも事実だったのである。
「主婦の確信」と「事実」が揃ったのだから、日本の社会の中に一気に幻想が広まるのは当然でもあった。
でも、一歩、踏み込んで考えると、それは「事実」ではなく「幻想」だった。「現実をありのままに見ると事実と思われるもの」でも、もう少し自分の身を引いてみると、「事実ではない」ということは自然界にはいくらでもある。
私が学生を指導するときに説明することの一つが、「毎日、太陽の動きを見ていると、どう見ても太陽が動いているのに、君はなぜ地球が動いていると主張するのだ。地球は動いていないじゃないか」というものがある。
地球は人間のサイズから言えば巨大だから、太陽の周りを地球が回っていても、また太陽と地球の関係が相対的な運動と捉えても、人間にとってはそのような「事実」を認識することはできない。
つまり地球は止まって見える。
もし、人間が自らの意志で宇宙空間に飛び出し、どこからでも太陽系を見ることができたら、彼は「地球が太陽の周りを回っている」と思うだろう。それが実は素直な観測なのである。
ゴミはどうか?
日本の社会が高度成長社会に入る前には、物質の生産量は非常に僅かだった。その時代には家庭から出るゴミというのはもともと少なく、家の外に黒い小さな箱を置いておくと、それを市役所が時々見回って取っていってくれればよいのであった。
そしてゴミを片づけるという「清掃業」に対する社会の評価も低く、おおよそ清掃業をやっている人が尊敬されるようなこともなかった。考えてみれば、いくらゴミが少ない高度成長前の日本でも、本当は清掃業は重要な職業だったが、庶民はそうは考えなかった。
よく江戸時代は循環型だったという人がいるが、決してそうではない。江戸時代が循環型に見えるのは、物質の量が現代の社会から見ると極端に少ないので、現在の目から見ると循環して使っていたように見えるだけである。
そして、江戸時代も清掃業は尊敬される職業ではなかったが、それはとりもなおさず、江戸という時代は循環型ではなかったので、繰り返し使うとか人間が使った物を処分すると言うことに社会が価値を見いださなかったのである。
高度成長前、各家庭から集めたゴミは僅かな量であり、それも生ゴミを中心としていたので、小さな焼却炉で燃やすか、それとも山間部に囲いを作ってそこに投げ捨てていた。
人間というのは単純なもので、高度成長社会になると、大量にゴミが捨てられるようになり、更にそのゴミの中に毒性の強い元素が含まれてくるということまでは予想しない。単に、使う物が増えて、便利になったとしか思わないのだ。
人間はつくづく、視野が狭く、自分勝手だと思う.もちろん、私などそのさいたるものだが・・・
ところで、高度成長がもたらしたのは物質量だけではない。それと共に、有害物質も極端に増えた。
現代の日本の工業製品に含まれる有害物質が規制値の1万倍以上になっていることから判るように、高度に成熟した工業製品には大量の有害物質を含む。反対に、江戸時代のように余り多くの工業製品を使わないときには毒物もごく限られた使い方がされるものである。
技術が発達しなければ水銀や鉛を除き、ヒ素、カドミウムなどの有害物質を使う用途をあまり見いだせないので、使わないのである。水銀は金アマルガムや硫化水銀として、神社仏閣に多く活用されたが、量が少なかったり、使う時がたまたまなので、水銀中毒という概念は生まれなかった。
鉛は現在でもどの程度の社会的な有害物質になるかハッキリしていない。自動車用ガソリンにアンチノック剤として大量に用いられ、それが大気中の鉛濃度を高めて、小児になどの聴覚障害を起こすことが20世紀の中盤に、アリス・ハミルトンなどによって明らかにされたが、毒性研究はまだ不明なところが多い。
日本では明治以来、上水道の水道管に鉛を多用した。鉛は水にほとんど溶けないので、溶けないから障害が出なかったのか、それとも少々、鉛が水道水に溶け込んでも、その程度は人体が必要とする範囲にあったか、もしくは防御の範囲だったのかと言うことも明確ではない。
社会は有害物質について常にヒステリックであり、鉛のような物はそのターゲットになる。東京の牛込柳町の鉛中毒に関する誤報(拙著、「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」に記載)のように、社会は有害物質についての誤報を歓迎する性質を持っているからだ。
その結果、きわめて単純なこと「鉛は人体に対して、どの程度なら有益で、どの程度を越えると有害であり、それは日常的になにに、どの程度、注意したらよいか」ということすらハッキリしていないのだ。
日本のように高度に発達して、科学技術や医療がここまで進歩しても、鉛がどの程度有害かという基礎的な知見すら調べられていないというのは、日本政府の政策がしっかりしていないこともあるが、人間社会の一つの特徴ではないかと私は思う。
(平成20年2月24日執筆)