頭脳が過度に発達した人間という動物は、その頭脳の仕組みを上手く使うことができずに、幻想にとらわれたり、最終的に何を目的として生活をしているのかが判らなくなることが多い。

 「生活の中の幻想」の問題は、古代には宗教の課題として扱われ、近代では心理学の研究の一分野だった。

 

 そして「幻想と現代日本」というとかなりの数の例を挙げることができる。おそらくこんなに多い幻想が社会全体を覆うのは、急激に複雑になっていく世界や人生に、人間の頭脳や感性が追いついていないからだろう。

 

 幻想の一群の中でも特に環境問題には、特に幻想が多いような気がする。それは、社会としても学問としても今から40年ほど前に、ほとんど突然と言ってもよいキッカケで環境問題が浮上してきたことも一因と思う。

 

 環境幻想ができたキッカケはレイチェル・カーソンの著作「沈黙の春」だったが、この「沈黙の春」という名著が環境の重要性を社会に認識させたと同時に、幻想をもたらしたのは必然的なことと思うが、それは後ほど検討することにして、ここでは私たちの身の回りの環境の幻想について、整理を進めていきたい。

 

 まず、私たちがなぜ「ゴミの分別」というものをしているかについて考えてみたいと思う。

 

 ゴミを分別しなければならないと日本人が思ったキッカケは、「家庭からでるゴミを埋め立てていた廃棄物貯蔵所(ゴミ箱)が一杯になりそうだ」ということだった。今では、「資源の節約」とか「循環型社会の構築」ということも言われるが、ともかくキッカケは単純な「ゴミ箱満杯の恐怖」だった。

 

 集団としての人間の行動は理性的ではない。時に民族は凶器のようになってある幻想にとりつかれ、振り回される。私たちの記憶に新しいのは第一次世界大戦後にドイツのヒットラーの政策だった。

 

 ヒットラーは人間が幻想のもとに行動することを知っていて、意図的にドイツ社会に幻想をもたらすように行動した形跡があるが、ともかく、ドイツが第一次世界大戦後の膨大な賠償金に苦しみ、その代償行動としてドイツ民族は飛び抜けて優れた民族だという「幻想」に逃げたことは間違いない。

 

 人間の行動は「欲望と恐怖」で動く。

 

 男性と女性をその性別のみで確定的に区分するのは適切ではないが、どちらかというと男性は欲望を主とし理性的かつ衝動的に行動し、女性は恐怖を秘めて情緒的で慎重に生活する傾向がある。

 

 これが男女の本質的な差違なのか、あるいは長い間の社会的な役割によるミーム(数100年の社会的な風景や特徴が遺伝的情報と混合して意識として一体となること)としての性質なのかは判然とはしないが、科学者として事実を事実として捉え、原因と事実を混同しないという整理の仕方から見ると、少なくとも20世紀後半の日本の男女の行動性向はそのようにまとめられるだろう。

 

 「ゴミ箱が一杯になる」という恐怖は特に家庭を預かっていた主婦に衝撃を与えた。これも主婦という特定の職業を特定の概念で狭く捉えることには慎重でなければならないが、一般的に主婦は「全体を数字でとらえる」と言うことは苦手で、身の回りのことを感覚的にとらえる傾向にある。

 

 その結果、当時の主婦には次のような幻想が沸いてきた。

「毎日、これだけのゴミを出すのだから、ゴミ箱が一杯になるに相違ない」

「ゴミ箱が一杯になったら、ゴミが捨てられなくなり、身の回りにあの臭いゴミがあふれかえる」

「ゴミ箱から有毒物質が流れ出して問題になっているから、ゴミ箱が満杯になると、さらに大変だ」

 

 この3つの結論はいずれも間違っていた。

 

 錯覚をもたらした第一の理由は、

(1)             主婦が毎日出すゴミは、主婦の生活範囲、自らの身長体重などから見るとかなり多い量だったこと、

(2)             高度成長以前の日本は物資量が少なかったので、それとの比較で、「最近、かなりのゴミを出している」という感覚があったこと、

によっている。

 

(平成20年2月23日執筆)