「僕にはやりたいことがあった」
そうだろう。君の写真はそれを私に訴えている。
「わたしも幸福になりたかった」
・・・すまなかった。あなたが子供を抱いて微笑んでいる写真こそ見たかった。
・・・妹は死を覚悟していたのか、「お父さんに会えたことがこの世で一番うれしい」と話したのが最期でした。
・・・頭を抱きかかえると私の腕にめりこむほどのひどい火傷でした。「悪かったわね、幸ちゃん」と声をかけると、「戦争だもの」とけなげに答えました。
広島の原爆を作ったのは物理学者だ。
戦争を始めたのは私たち大人だ。
すまなかった・・・・
君達の最後は断片的に残り、それが日夜、私に呼びかける。
・・・8日になると「僕はもう生きることはできない。お姉さんだけは防空壕にはいって。泣いたら、僕も草葉の陰で泣くようになるから、いつも笑って欲しい」と言って、息絶えました。
・・・「明日は登校日で英語がある」「頑張ろう、頑張れ」などと言い、アルマイトの大缶に入った水を飲み干し、翌午前零時35分死去。
・・・兄は登校中に被曝した私を気遣い「僕は良いから、妹に水を飲ませてやってくれ」と母に言ったそうです」、7日朝、「苦しいよ」と繰り返して死去。
・・・背中から何度も降ろして確かめなければならないほど弟の顔かたちは変わっていました。自宅近くの山畑に連れて上がる途中で「だんだん近くなってきたね」が最後の言葉でした。
・・・重傷の生徒7人は役場で一人ずつ亡くなりました。弟は「お父さんは?山本先生は?お姉ちゃんありがとう」と言い残し、3番目でした。
・・・似島で亡くなった弟を看護した女性が「お姉さん、僕がここに居ることを必ず家族に連絡してください。僕は尼崎の**です」と言ったと伝えてくれました。
・・・両手で顔を覆ったままの遺体を見つけ、自転車の荷台に乗せて連れて帰る。小学校2年生だった妹は「兄は、いつも「僕が家族を守るんだよ」と話していましたと語る。
・・・土橋電停近くでトタンに囲われた遺体を名札で確認。弟は「どす黒くなっていた顔に、涙が乾いて白くなっていたのを今でも覚えています。しばらく生きていたのだと思います。」
すまなかった。大人たちは今、また同じような過ちをしようとしている。
でも、君たちの無念は忘れないよ。
(平成20年2月17日 執筆)