いつもカーテンが閉まっていたから、そこにおられる人がどういう方なのか、どんな病気なのかは判らなかった。私がその病室に入ってきた時にはすでにベッドの周りのカーテンは引かれたままだったし、それから一度も開けられたことは無かった。

 

 若い看護婦さんが白いスカートの裾を翻しながら足早に私のベッドの横を通り過ぎていき、そして素早く、滑るようにカーテンの隙間からそのベッドに入っていく。彼女たちは慎重で丁寧だから必ず自分が通った後、少し開いたカーテンを白い腕をかざして閉めていく。

 

 外科の病棟だから手術を受けたのだろう。それもかなり厳しい状態であることは彼の弱く小さなうめき声で判るし、看護婦さんの緊張した顔つきからも推察できた。

 

 夜になると病棟の電気が消え、しーんと寝静まった静寂の中にカーテンの向こうから微かな声が聞こえる。・・・ああ、辛いんだろうな・・・と思って私も寝返りを打つ。

 

 しばらくして看護婦さんが小さい懐中電灯で足下を照らしながらカーテンの中に入っていくと、あのうめき声が小さくなり、やがて聞こえなくなる。夜半に鋭くなった私の脳裏にベッドの横に中腰になった看護婦さんが患者さんの手をさすっている姿が映る。

 

 それから数10年が経った。私も中年になり、病弱な体も少し回復して仕事に精を出していた。でも、頑健ではない生来の私の体に、しばしば激烈な苦痛を味あわされたのだったが、その一つが腎臓結石だった。

 

 「大の男が七転八倒する」と言われたこの病気は単に血液中で析出した難溶解性結晶が原因しているだけだが、確かにその痛みは激しい。発作が襲ってくると立っていることは不可能である。

 

 山口県に講演に行ったときだった。朝、ホテルからでてタクシーを待っていたら微かな発作の兆候があったけれど、講演も迫っているのでそのままタクシーに乗った。でも、程なくして私は後部座席の椅子から転がり落ち、床で苦しむことになる。

 

 運転手さんは親切に私を病院に連れて行ってくれたし、看護婦さん、そしてお医者さんが緊急手当をしていただいた。

 

 それから程なくして今度は東京で発作に襲われた。五反田の病院に駆け込み、そこでウンウンと唸った。鎮痛剤が効いてくる間、私は数分おきに訪れる激痛に身を丸くしてベッドに突っ伏すのだが、そのたびに看護婦さんが私の腰をさすってくれる。

 

 あれ?と思った。看護婦さんがさすり出すとあれほどの痛みが少し遠くに行ってくれるのだ。フト見ると若いポチャッとした可愛い看護婦さんだった。「ああ、女性にさすってもらうと良くなるんだから、私もまだ若いな・・・」と苦しい痛みの中で思わず苦笑したものだ。

 

 科学者でもある私はこんなときにも職業病がでる。

 

「あの痛みが遠くなるような感じは、美人の看護婦さんに反応した心理的なものだろうか、それとも本当に痛みが弱くなったのだろうか、痛くなるというのは結石が尿道を塞いで起こるものだから、看護婦さんがさすったからといって変わるはずもない」

と激痛の中でも職業というのは恐ろしいものだ。

 

 果たして痛みは5分後に訪れ、私はエビのようになってベッドに突っ伏し、看護婦さんが来られてさすってくれるのを待った。

 

 私は痛みが客観的に見ても減っていくのか、それを実験する好機だ。やんぬるかな、看護婦さんがさすってくれると、あのこの世とも思えない苦しみが少しずつ遠くに移動していくのだ。

 

そして私の心に「今度の痛みはなんとか我慢できる」と言う自信が湧いてくる。

 

 もしかすると痛みとは「今度こそ、我慢ができないかも知れない」という恐怖心で倍増しているのではないだろうか?そしてその不安をあの看護婦さんの手が解消してくれるように思えた。

 

 そんなことが数回続いたあと、鎮痛剤が効いてきた私の体はなんとか起きあがり、再び病院の玄関を通ることができた。

 

 脳を手術したのだろうあのカーテンの向うの患者さん、そして私にとっては死ぬような苦しみだった結石、その苦しみを看護婦さんの手が救ってくれた。人間とはそういうものだろう、群生とはそういうものだろうと私は思う。

 

 共に生きること、共に痛みを分け合うこと、そのことが大切なのだろう。人間は群生だ。一人では寂しくて生きていけないし、大勢ではややこしい。やっかいだが、それが私たちの生というものだと思う。

 

 突然、結石の痛みが来るかも知れないし、やがて体のどこかを指すってもらいたい時も来るだろう。でも、人が自分を助けてくれる前に自分が人を救ってあげたい。give and take(ギブ・アンド・テイク)と言うけれど、ギブ(与える)がテイク(もらう)より先の方が気持ちがよい。

 

 もちろん、テイクを期待してギブするわけではないが、それでもギブが先だ。だから私はデディケーション(献身)という。まずはデディケーション、ヒトは群生だから、やがてそれは自分に返ってくるだろう。いや、返ってこなくてもこの世に生を受けた感謝の気持ちをデディケーションで示したい。

 

(平成20131日執筆)