環境のために紙をリサイクルするのが良いと言われているが、その前に、世界の4位でも良いからスウェーデンやフィンランドのように自分の国の森林を使うようにするか、消費量を減らすのが「環境によい」と考える考え方もある。

 

 しかも、つい40年前までは日本は自分の国の森林で、紙をまかなっていたのだからできない相談ではないだろう。でも、それが実現しなかったのは、日本社会の変化と、それに対する製紙会社の考え方があった。

先回、データを示したように日本の紙の消費量が増えていった。その分だけ製紙会社は生産量を上げなければならない。会社にとって販売量が上がるのは大変、結構なことだが、それに応じた原料の入手先の確保も必要となってくる。

 

そうなると、日本の森林からの原料では割高な紙になるので、経済原理に従って、紙の原料を海外に求めることになる。なぜ、日本の森林からの原料が割高になるのかという疑問に答えるのは難しい。ごく単純に言えば、日本人の人件費が高く、地形的に起伏が激しいということになるのだが、政策的な問題も多く、また先進国の中で日本の森林利用率が一番、低いことも考えなければならない。

 

ともかく、紙の消費量が増えると、資源を海外に求め、それと並行して、ちり紙交換というリサイクルの仕事が活躍しだした。ウエスアンドペーパーと言われる「ボロ布、古紙」の商売が活況を呈したのである。

製紙会社が日本の森林に戻りたくなかったのは、ビジネスとしては当然である。日本の林業は政策の問題もあって国際競争力に破れ、「日本産の木材」を少し切り出すだけになってしまった。製紙会社は木材用の樹木を切り出したり、製材するときに発生する間伐材などを利用するに止まり、森林から紙の製造を目的とした伐採は不可能になった。

 

「損をしても環境を守るべきだ」などと無責任なことを言う人もいるが、会社を構えて製造をしている人にとって見れば、日夜、コストダウンに取り組んでいるのに、高い国産の森林を利用する訳にはいかない。

 

そんな情勢の中で、「環境運動」が登場した。環境運動家の多くは一般市民であり、紙の消費量が増えた主たる原因は市民にもあるのに、それを棚上げする傾向もあった。

 

残念ながら日本の環境運動は十分に成熟していないので、ヨーロッパをまねする傾向がある。自分でジックリと考えない。「ドイツがやっているから」という理由が多いが、ドイツと日本の森林利用の関係などはあまり議論されないのが普通だ。

 

 ともかく、紙は国際化した。これを物流という点で見ると、国内産のチップ、パルプから外国産に変わり、さらに国際的に資源が自由化されるにつれて、物流が需給関係で大きく揺らぐ時代になった。その調整の一部を民間のちり紙交換という商売が担っていたのである。

 

 変動する紙資源に対してちり紙交換がその緩衝役を果たすのだから、必然的に市況は乱高下する。市況の乱高下は製紙会社に取ってみれば都合が悪かったが国際商品の需要供給を自動調整していた。

紙の市況.jpg

この乱高下を押さえたのが、環境運動を中心としたボランティアのリサイクルと法律に基づく官製リサイクルだった。

ゴミ問題がキッカケとなって、日本人は官製の紙のリサイクルをはじめた。実に奇妙な現象でもともと、紙のリサイクルはされていたのに、それに横からチョッカイだしたと言った方が正確だろう。

日本人はまだ封建時代の感覚が残っていて、「民」が「官」になるというと良くなると思いがちだ。しかし、国鉄の例を見ても判るように官が民よりよいとは一概には言えない。

 

もっとも、この論理・・・ちり紙交換が活躍していた時代はまともだったが、官製リサイクルが始まって「誠」の道を踏み外した・・・というのは、あまりにも単純すぎるかも知れない。

 

それは、官製リサイクルが開始される前も、人工ちょう密な都会では自治体単位の回収も行われていたし、主婦によっては不定期で不安定なちり紙交換より、定期的な回収を望んでいた。 

でも、官製リサイクルは二つの欠陥を新たに生じさせることとなった。

一つは、「自由な国際資源流通」の中に、日本だけが「統制経済化の紙の資源の流通」が始まったことだ。だから、自由と統制がぶつかってギクシャクし出した。2008年に露見した製紙会社の偽装の根本原因がここにある。

もう一つは、「ちり紙交換」という民が担当している時の方が、少なくとも古紙をちり紙が交換できた。つまり、古紙は「価値があるもの」だったのだ。少ないとはいえ、ちり紙交換が来てくれるとトイレットペーパーを2巻きぐらいは置いていったものだ。

ところが「官製リサイクル」もしくは「環境運動家が指導する紙のリサイクル」が始まると、それに直接的な部分だけで税金を500億円も使うようになった。市民から見れば「それまでは古紙を出してトイレットペーパーをもらう」から「古紙と税金を出す」に変わったのだ。

もし、古紙に価値があるなら、ちり紙交換が正しい。「価値があるからリサイクルしよう」といって税金を取るのは正反対だ。

 

 そしてそれまでは「ちり紙交換で、ちり紙がもらえるから紙は取っておきなさい」と言っていたお母さんが「紙のリサイクルは環境に良いから」と教えるようになり、小学校や中学校の先生まで右へならえした。

 

 でも、紙は太陽の光でできる。たとえばスウェーデンの森林はかつて9500万立方メートルの樹木が利用されていたのに、紙のリサイクルが始まって需要が減り、7000万立方メートルしか使わなくなり、残りは捨てざるを得ないようになったと北欧木材協議会は嘆く。

 

 スウェーデンの森林.jpg

 

 「官製のリサイクル」は「自然との共存」「世界の物流との共存」を十分に考えないで登場してきたとも言えよう。

 

 まず自然との共存であるが、自然はその年の寒暖の差や日照時間などで変化する。また疫病や台風などさまざまな変化の中にいる。だから農作物で判るように「市況商品」なのだ。

 

 一方、「官」というのは融通が利かない。多くの人を相手にするので合理的な方法は納得性が無く、選択の自由が取れない。だから一定の方法で一定量の紙を回収させることになる。

 

 次に、現在は世界の資源は自由化されている。人の生存に関わる食糧ですらそうなのだから、石油、石炭、天然ガス、鉄鉱石、銅鉱石、金に至るまで自由に取引される。その中で、紙の原料となるチップもパルプも同じであり、またリサイクルした紙も資源だから同様だ。

 

 自由な取引の結果、国内にリサイクル紙が無くなることもあるし、反対にだぶついたり、また森林からの新規パルプが不足することもある。今回の問題は、このようにシステム自体に無理があったことが原因している。

 

(読者の方からのご意見もあって、この紙のリサイクルに関するところをもう一度、読み返してみたら、ちり紙交換の価値をあまりに高く評価していると感じた。それは、私が「小さいもの、弱いものの心を大切に」といつも思っているので、それで少し偏りすぎている。でも、「古紙と古い布」などを回収して商売をしていた人たちが、さまざまな政治的、環境運動的なことで個別に被害を受け、それはほとんど知られることなく埋もれてしまっていることも、私が訴えたい一つである。でももう少し私自身が冷静にならなければいけない。)

(平成20年1月25日執筆。平成20年3月10日修正)