環境のことで社会とかなり密な接触を持つことになって以来、これまでの私が活動していた世界とは違うリスポンスにとまどうことが多かった。
その第一は「目的が正しければ少しのウソは良い」ということを言う人が多いからだ。たとえば「ダイオキシンでの健康被害の可能性は低い」と説明すると「ダイオキシンを騒いだことで薬物に対する関心が高まったから良いではないか」という類である。
薬物に関する関心は大切なことだが、私は科学の道を歩んできたかも知れないが、結果が良いからと言って不正確なことを言うのはあまり感心しない。でも、そういう人が悪びれていないのに少々、驚いた。
私の言う「日本人の誠」から、かなり離れていると感じる。
第二は、「正統と異端」である。これについてはすでにこのホームページでも書いたが、地球温暖化で国連のIPCCの報告をそのまま私が伝えると「異端」になり、どこかの特別な論文を引用すると「正統」になる。
つまり、今の日本では「正統」とは、「日本の多くの人が、そう思っていること」であり、それが科学的、もしくは国際政治として認知されているということとは隔絶している。
第三は、今回取り上げる「独自のデータ」という用語の取り扱いである。
私は2007年の3月に、「ペットボトルのリサイクルについて、3万トン程度しかリサイクルされていないこと、リサイクルに石油から作るときに比較して数倍の資源を使うこと」と書いた。
そうすると「これは武田の独自のデータだから」ということを、やや「信用できない」とか「だからいい加減だ」という雰囲気で使用される。
もともと、学者というのは「独自のデータ」、つまりこれを「オリジナリティ」というが、新しいデータを理論や実験、そして調査に基づいて発表するものだ。もちろんその根拠は論文や学会発表などで最初は行い、順次、一般の書籍や解説に書くのが普通だ。
もし、学者が自分自身の理論やデータを持たずに、いわば「独自のデータ」がないのは異常で、学者としての社会的価値はかなり低くなるだろう。
私はこのことを説明するときに先の太平洋戦争の時のミッドウェー海戦を例に出す。ミッドウェー海戦は太平洋における制海権、特に空母の数を決する天王山の一つだったが、残念ながら日本が惨敗して、参戦した大型空母のすべてを失った。
しかし、大本営は「空母六隻のうち一隻」が撃沈されたと発表した。戦時である。政府は必ずしも正しい情報を発表するのが適当かは判らない。戦いというのは敵を欺くことも普通だからだ。
でも、海戦を歴史学者が書くときには「空母が全部、沈んだ」と「独自のデータ」を発表するだろう。そうしないと、この海戦のあと日本とアメリカの海戦で日本の大型空母がなぜ登場しないのかを説明できないからだ。
学者が大本営発表をそのまま使ったら学者としての意味はない。
私は資源材料の専門家である。だから、政府がリサイクルの現状をどう発表しようが、常に「独自のデータ」を書く。そして学会や最近ではネットの力も借りて常にその詳細や理論を発表する。それが学者である。
ところで、私が2007年の3月に数字を発表してから、まだ他の人や他の機関、そして政府からはなにも発表されていない。まだペットボトルがどの程度、リサイクルされているのかは私のデータだけが日本に存在する。
2008年1月の日経新聞に「初めて、国がペットボトル・リサイクルの実態調査を行う予定」と書いてあった。でも、おそらくはそれが出ても「資源をいくら使っても、もう一回使えばすべてリサイクルに入れる」という前提で数字がでるだろう。だから調査の結果が出ても、私とは違うはずだ。
私の興味の中心、「リサイクルは資源の節約になるか?」ということだが、私以外の機関や人からこの単純なことが発表されるのはいつだろうか?そうすれば私も議論ができるのだが。
(2008年1月。読者の方からの質問に触発されて執筆)