人間の心というものは不思議なものである。この社会には「所有権」というのがあり、人の持っているものは人のもので、自分のものではないことはよく分かっている。

 

 そんなに大げさなことを言わなくても、電車にのって先に座っている人を無理矢理、立たせて自分が座ることはできない。どんなに簡単なものでも、早者がちということはある。

 

 「ひとのものは人のもの」、「自分のものは自分のもの」である。あまりにも当たり前だが、それが本当に判っていないので、苦しく人がいる。自分で原因をつくって自分で悩んでしまうのだ。

 

 学生では「人のレポートを写す」とか、もっと悪い例では「カンニングをする」というのがある。レポートにしても試験にしても「自分の頭にあるものは自分のもの、他人の頭は他人のもの」ということが判っていれば、レポートを写したり、カンニングしたりはしないはずだ。

 

 どうせ、自分は自分の力でしか生きていけない、だからレポートが良い点でも悪い点でもそれは仕方がない、という覚悟さえあれば良いのだ。

 

 この世で「自分の力の範囲で生きよう!」と決意して、飢え死ぬ人はいるだろうか?おそらくその人の能力という点では皆無だろう。病気になり、その時、偶然の他のことが起こって苦しく人はいるだろうが、ある程度の健康を保てば、今の日本で餓死する可能性は低い。

 

 それならなぜ「人のものは人のもの」と思えないのだろうか? 学生ばかりではない。額に汗してコツコツと働き、それで収入をえて生活をすれば心も満足するし、気持ちがよい。どんなに小さなお風呂でも額に汗して働いた汗を流すお風呂は気持ちがよい。

 

 でも、守屋前防衛庁次官という教育もあり地位も高く、お金もあるのにゴルフをせびる。「自分のお金でできればやり、できなければやらない」というほどの覚悟もつかないのだ。

 

 私が自分の人生を振り返ったり、また他人の行動を見ていると、「自分の力の範囲ではなく、なんとか他人のものを拝借して、少しでも良い生活をしよう」と思うと、不幸になる。

 

 不幸になり方は二つあって、一つが守屋次官のように逮捕されたり会社を首になったりする例だが、普通は違う。人間の心は案外、まっすぐだから「他人のものを拝借する」となんとなく後ろめたく、気持ち悪いのだ。それが積もり積もって不幸になる。

 

 そして私たちの悩みのほとんどは「他人」に期待するからだ。「自分」だけでできること、それを精一杯やって、「結果は仕方がない。神様におまかせして運命をまとう」と思えば、何でも気軽になる。

 

 精一杯、受験勉強をしたら、合格するか落第するかは相手の決めることだ。自分がやるべきことはやった。一所懸命、彼女に尽くせば、彼女が応じてくれるかは彼女次第だ。自分はやるべきことをやった。ああ、頑張った。あとはお客さんが買ってくれるかどうかだ。それはお客さんが決める。

 

 そう、今日も朝から自分としてはこれで精一杯だった。だから、運を天に任せてお風呂に入ろう。そして、寝て明日起きて、もしうまく行かなかったら、それでもともとだ。

 

 実は、「自分の悩み」の多くは「自分の創造物」である。自分でできないことを何とか他人の力もかりてと思うと悩みは深くなる。