このシリーズはお金を払っているのにマスメディアから正確な事実を知り得ず、たとえ事実を知ってもグローバリゼーションが進んで解析が難しくなった今日の日本の情勢を「真正面」から分析したものである。シリーズの目的は、自らと自らが愛する人を守り、正しい社会を次世代に残すことである。内容は少し難解だが、もし読者の方がここから何らかのヒントを得て、より正確で深い行動指針を作ることに役立てば望外である
さて、
1945年に戦争が終わり日本は廃墟と化した。それから15年。日本人というのはなかなか大したもので、すっかりダメになったかと思ったら、そこから急速に立ち上がってきた。朝鮮動乱のような、朝鮮半島は悲惨だったが、日本にとっては戦後復興の切り札になった戦争もあったが、全体としては日本人の努力を買うべきだろう。
特に15年後の1960年になると本田宗一郎率いるオートバイはマン島TTレースで優勝するようになる。このホンダの飛躍は戦後の日本をさまざまな意味で象徴している。本田宗一郎は当時、通産省と大自動車会社がアメリカやヨーロッパの優れた自動車が輸入されないように、必死になって関税障壁を作ろうとしていた。戦後の自動車産業の守り方には二つあった。
一つが関税を高くして外国の自動車が入らないようにし、日本人にはぼろい車を買ってもらうという方法、もう一つが本田宗一郎が選んだもので「外国の自動車より優れた車を作るぞ!」というものだ。
戦後の日本の多くの政策は「保護主義」だった。その典型的なものが自動車であり、コメだった。コメも日本の農業を守る為に輸入を制限し、日本のコメ行政に批判が集中した時代には、外国産のコメに比べて同じ品質で価格は7倍と言われた。とにかく競争のない温室で育つのだから、7倍ぐらいには行くだろう。そして日本の農協の人は7倍のお米を国民に買ってもらってそのお金を胴巻きに忍ばせ、団体で外国旅行した。
それが国際的にも顰蹙を買い、私たち日本人から見てもみっともなくて恥ずかしかった。でも、本当のところは農業をしている人は純情だから、そんな風になってしまっただけで、戦後の保護政策の中でぬくぬくと儲けていたその他のインテリは目立たないように遊んでいただけだ。
ホンダのマン島レースの輝かしい成果は、戦争で多くの人が死に、産業界にもどこにも空席が空いたこと、古い会社や体制が一掃されて、若い人が力を発揮できたことによる。本田宗一郎、松下幸之助がこの現代の利権の時代に頭角を現すかどうかは怪しい。その一つの帽章に第二次世界大戦の戦勝国と敗戦国、そしてその後の経済成長を見ると判る。
第二次世界大戦の戦勝国としてはアメリカ、イギリス、フランス、それにソ連だ。それに対して敗戦国はドイツ、イタリア、そして日本である。形式的な戦勝国と敗戦国は他にもあるけれど、世界をリードするような立場にある国の勝敗はこのようなものだった。そして戦後の経済成長はドイツと日本が断然トップで、アメリカやイタリア、フランスが普通。イギリスやソ連は衰退していった。
仮に「戦争は何のためにするのか?」と聞けば「自分の国を守るため、あるいは他の国をとるため」と答え、「戦争は勝った方がよいのか負けた方がよいのか?」と聞けば、100人が100人、「勝った方がよい」と答えるだろう。と言うことは戦争は勝った方が良いと言うことで、なぜ勝った方がよいかというと戦争が終わった後、負けるより勝った方が繁栄するからと言うことだ。
ところが事実は反対と言った方が良いぐらいだ。あれほど酷くやられたドイツと日本が戦後の繁栄では断然トップで、イギリスはイギリス病に悩まされ、イギリスの繁栄の象徴だったポンドはすっかり影を潜めてしまった。ドイツ、イギリス、そして日本はほぼ同じような大きさの国で、それほど特別な資源もなく、先進国の一因という点では似ている。
もし、ものすごく物事を単純化して、「同じような大きさの国の場合、戦争して勝った方が得になるか負けた方が得か?」と質問すればその答えは決まっているのに(勝った方がよい)、事実はその逆(負けた方が良い)というのだからこれは十分に考えなければならない。しかも、このことは歴然とした歴史的事実だからだ。
なぜ、勝ったイギリスより負けたドイツや日本の方が繁栄したのか? その原因は、私には次の二つのように感じられる。まず、第一に国民が謙虚になったことだろう。ドイツは第一次世界大戦を敗戦して追いつめられナチスドイツが出てきて国力を回復したという特殊な事情があったが、日本は明治以来少しずつ力をつけて、第二次世界大戦直前には近隣の中国や東南アジアの國より強く、アジアの国にとしては日本だけがヨーロッパやアメリカと台頭に戦える力があった。だから、一人一人の心は傲慢になり、国全体としては財閥などができて固定化する。人間は成功したことを忘れられず、そのシステムを壊そうとはしない。成功しているのにゼロから出発するのは難しいのだ。ところが戦争に負けて一度、どん底を味わった。ゼロから出発する覚悟ができたのだ。
そして第二に優れた人が死んだことだろう。もともと「優れた人」は「国の宝」のはずだ。その証拠に東大は税金でまかなっている。東大が税金でまかなうというのは奇妙だ。東大を出た人はだいたい国でも会社でも偉くなっていて、おおかたお金持ちなのだから、自分のお金を後輩のために寄付したらよい。それで東大はやっていけるだろう。ところが東大は税金で運営している。
なぜ東大は税金をもらうのを断らないのだろうか?それは「俺たちは優れているから国のためになる。だから国からお金をもらって良い。」という確信があるからだ。私は名古屋大学で教鞭を執っている頃、機会を見て次のようなレポートの問題を出していた。「あなた方名古屋大学の学生は1時間の講義に約1万円の税金をもらっている。その学生が講義をさぼってアルバイトをして1万円もらったとすると、二重取りで逮捕されるのではないか?」というものだ。
学生の答えは簡単に分類すると二つに分かれていた。7割の学生は「申し訳ない。今までそんなことを考えずに漫然と大学に来ていた。だからサボったときにそれが税金のムダになるとは知らなかった。これからは一所懸命、勉強する」というものだ。教師としてはこのような解答はホロッとくる。そしてもう一つのタイプの答えは「俺は優秀なのだからお金をもらうのは当然だ。だって、イチローは能力があるからあんなにもらっているじゃないか」というものだ。これも考えさせられる解答である。
この世は学生だからとかプロ野球選手だからということはない。だれでも一人の人間だから「優れた人は人のお金をもらって良い」という規則があるなら、学生の言い分はもっともだ。でも普通に考えると「イチローは能力でもらっているのではなく、能力の結果、素晴らしいプレーを見せてくれるので、そのプレーに対してお金をもらっているのだ」と答えたいところだが、どうも言い訳のようにも見える。確かにシステムとしてはそうなっているが、結局は同じではないかとも思われる。
「優れた人は国の宝だから、お金をもらっても地位を占めても良い」というのは本当だろうか?戦争で偉い人はみんな死んだ。特に軍人や政治家は日本を担っていた人は全滅した。全滅したのだから、さっぱりできなくなったはずだが戦後の政治はそれほど悪くない。では戦前はもっとも偉い人が政治をしていたのではなく、二戦級がやっていたのかと言うことになる。
松下幸之助も本田宗一郎も基本的な能力は素晴らしかった。だからこそ一介の商店から大企業になったのだが、もし時代が閉塞的で偉い人が上にいたら、彼らは本質的ではない「学歴」とか「生まれ(貴族、士族など)」が障害となったかも知れない。ちょうど、今の二世でないと議員になれず、二世でないと有名人になれないような社会なら頭角を現すことはできなかっただろう。
人格高潔と言う意味でかけがえのない人はいるが、単に産業、政治、軍事などでかけがえのない人などはいないことを日本の戦後が示していないだろうか? この世で発展を妨げているものを一つあげよと言われたら、「これまで成功した人が残っていること」と答えるのが正しいのかも知れない。
(2008年1月11日 沖縄にて)