人間とはおかしなものである。自分には夢がある。夢というほど大げさではなくても、「これはやりたい」とか「こんな風になりたい」という漠然とした希望をもっている人は多い。

 

 ところで「積極的」と「消極的」があるが、「なにかになりたい」というのが積極的なら、「自分のこんなところを直したい」というのは消極的な希望と言えるだろう。どちらでも本人にとっては真剣だ。

 

 真剣で、自分が希望して、自分が決めたことなのに、いざ、やろうとしても「明日でいいや」、「まあ、後にするか」といつまでも手をつけられないことすらある。自分の希望なのだからすぐやればよいのに、それができない。

 

 人間の心というのは実に不思議なものである。

 

 意志の弱い人、または自分で意志が弱いと思っている人は「自分は意志が弱いから」とあきらめる。でも、それも違うように思う。私はかなり意志の強い方だ。それでも、私も自分の希望や自分のイヤなところを直せない。

 

 どんなに意志が強くでも人間というのは自分では、ちょっとした希望に向かってすることもできないようだ。私は自分の経験や他人をみていてそう思う。時にオリンピック選手などのように頑強な人が「目標に向かって前進するモデル」になるが、そんな人は希だ。おそらく報道されない裏では人間らしい苦しみがあるだろう。

 

 それじゃ、夢も希望もないじゃないかと思いがちだが、そうではない。決定的な方法があるのだ。

 

 妙齢のご婦人がいるとする。すこし古くさい言葉(妙齢)を使ったのは、歳を特定したくないからだ。ともかく妙齢の女性だ。その女性が二人いる。一人は可愛い小学校3年生の子供がいる。一人は独身生活を謳歌している。

 

 ある秋の日曜日。その日は小学校の運動会だ。お母さんは朝5時に起きてせっせとお弁当を作る。三段重ね。それも子供が喜ぶようにカラフルで、しかもキャラクター入り。それに2時間をかける。

 

 お母さんは何の苦痛もない。朝早く起きることも、お弁当一つにそれだけの手間をかけることも。なぜ、苦痛はないのか? それは子供を喜こばせよう、他の子供に負けないお弁当を持たせよう、という一心だからだ。

 

 独身女性は朝が辛い。できるだけゆっくり起きて、どうせ自分だけだから朝食もカットしがちだ。

 

 どうしてこんなに差が出来るのだろう。それはお母さんは愛する子供に「背中を押されているから」である。見かけは「子供のお弁当を作っている」と見えるが、実は「子供に背中を押されている」のである。

 

 そう、自分の夢を実現し、自分の欠点を直すには、自分の意志ではできない。背中を押す何かが必要だ。一番良いのはお母さんにとっての子供のように「愛する人」だ。愛する人に背中を押されれば、苦痛は幸福に変わる。

 

 でも、人生には愛する人に巡り会わないとき、別れたとき、そしてその時期を過ぎたときがある。そんな時には、なにか別のもの、自分にとって背中を押してくれるものを自分で作るのだ。

 

 明日から朝7時に起きるのだ、俺のプライド!と決意しても良いが、それだけではすぐへこたれる。できればそれを公言し、できなければ友達におごる約束をする。それもとびきり高い方が良い。それで後を押してもらう。

 

 私が人生を楽に過ごせるようになったのは、これに気がついたからだ。それからというもの、辛いことも辛さは半分に減った。いや、時によってはあのお母さんのように本来は辛いことなのに、自分では幸福に思うことすらある。

 

 どんなに簡単でも良い。どんなものでもいい。なにか背中を押すものを探すことだ。口うるさいお母さんがいれば、まだ背中を押してくれる。

 

 でも、それも無くなって、自分の為に自分の意志でやるほど辛いものはない。