このシリーズはお金を払っているのに新聞やNHKの情報から正確な事実を知り得ず、たとえ事実を知ってもグローバリゼーションが進んで解析が難しくなった今日の日本の情勢を「真正面」から分析したものである。シリーズの目的は、自らと自らが愛する人を守り、正しい社会を次世代に残すことである。内容は少し難解だが、もし読者の方がここから何らかのヒントを得て、より正確で深い行動指針を作ることに役立てば望外である。

 

 さて、

 

 アメリカでサブプライム問題が起こり、東京市場の株価が大きく下がって、それを「混迷の時代」と言う。でも、社会である方向が決まり、それに向かって進み始めると、僅かな期間だけはそのまま進むことがあっても、社会は常に動き、変化するので、しばらくすると混迷の内に発展するようになる。だから、私たちが生きていく時間の多くは混迷の時代である。ただ、2008年が開けた現在の「混迷」の中には、このような「時代の推移による社会の変化」と共に、「人為的に混迷」が加わっている。その人為的に作られた混迷の原因をなす第一が「不当な利権」であり、第二が「マスメディアの指導」である。

 

 まず第一の「不当な利権」について解説を加える。それは次の情景で明確に把握できる。(ここでは環境問題はあまり中心に置かないが、事実を見るために時折、環境問題でその例をとることがある。下のゴミの例も単なる利権の例示に過ぎないので環境問題として読まないで欲しい。)

 

 市民が分別したゴミを乗せたトラックが走り去る。そのトラックの荷台には先ほど市民が分別した「資源ゴミ」が積載されており、運転席の横には「リサイクル税金」という名称のお金が置いてある。トラックの行き先はリサイクル工場である。「分別すれば資源」、「リサイクルして循環型社会を構築する」ということで「血税」が支払われる。トラックは市の焼却炉のそばを走り抜け、そこから5キロほどのところにある本来の目的地たるリサイクル工場を横に見て、更に山中に走る。到着地は山間の簡易型産業廃棄物の焼却場で、そこで直ちに資源ゴミは全量が焼却される。トラックが受け取った血税はキログラム405円。そして焼却に要した経費は20円。差し引き385円の「利権」を手にする。

 

 利権はそれに参加する関係者にさまざまな恩恵を与える。トラックは単に資源ゴミを運搬するだけで385円を得るのでまる得である。市は、もともと市が管理しなければならない一般廃棄物を「資源ゴミ」として市の管理からはずすことができるので、「分別したおかげでゴミが減り、その分だけ税金も減った」とその成果を市民に宣伝することができる。時に市長などの選挙の洗礼を受ける人にとってはたまらない利得である。ゴミは市の焼却炉に入らないだけで、業者がどこかで燃やすようになっただけである。市民から見れば、煙が市の焼却炉からでるか、少し離れたところで出るかの違いだが、市が焼却してくれれば市民はキログラム40円しか払わないで住むが、資源ゴミになるとキログラム405円の税金を支払う。それだけではない。業者が燃やす焼却炉は誰も監視はしていないので、汚い排ガスがもうもうと出ている。

 

 この利権システムでは中央官庁も利得を得る。現役の時には税金の分配権力、そして引退後は天下り先が用意されるからだ。つまり、この事件(資源ゴミをトラックに乗せて不法に焼却する)では関係者(国の役人、自治体の市長、業者、新聞社、環境運動家)はすべて満足した状態になる。新聞社は「分別すれば資源」とのキャンペーンを打って売り上げを増やし、環境運動家は「我々はリサイクルをして環境を守るのだ」という運動の成果を上げることができる。この事件に関するすべての行為は架空だが、利権者にとっての成果は上がる。損をするのは、その市に住んでいる市民と一般国民である。市民は税金を取られ、ゴミが減ったとの虚偽の報告を受け、そして汚い煙を吸う。一般国民は意味の無い環境施策に振り回され、時に子供も巻き込んで不誠実な行動を強いられる。

 

 もともとプラスチックゴミなどの可燃性ゴミなどは、「資源ゴミ」として扱っても資源にならないのだから事実というものはほとんど存在しない。カモフラージュの方法はさまざまでその典型的な一つが廃プラスチックを「燃えないゴミ」と呼ぶことである。そして本当に「プラスチックは燃えにくい」と錯覚している人も多い。私は火災防止の為に長い間、プラスチックの燃焼をいかに押さえるかの研究をしてきたので、本当に情けなく思う。

 

そんな架空の行為でも、利権と損失が生まれる。原理的にはこの利権と損失は同じだが、実際には少し損失が大きいだろう。というのは、もともと生産的でも発展的でもなく、それまで市民が捨てていたゴミを分別せずに収集していたのを、分別して業者が収集しているだけで、結果的に焼却しているのは同じだからだ。何も起こっていない。ただ「分別する」という行為が付加されているので、社会的には損失だが、汚い煙で何とかなっているので、その分は負荷が減る(人体の負荷は増える)。この発展性のないシステムの誕生で、新たに発生した利権は「キログラム405円に相当するお金」である。日本全体で実に5000億円だ。国民一人当たりの損失額はお金では5000円、それに分別の労働が加わる。だから大した損失ではないと言われるが、関係者が1万人とすると一人当たり年間5000万円を受け取ることになる。これが「利権」である。

 

本来、日本人は勤勉で優秀だから、このように何も生まないところに「利権の巨塔」を立ててそこから収益を得なくても良いと思われる。上記の例では、高級官吏、自治体、新聞社などの社会の指導層が、一般市民の税金で余録を得ようとしているのだから、社会的な害毒は大きく、また発展性のある話ではない。しかし、守屋前防衛省事務次官の事件でもよく理解できるように、人間というものはそういうものである。そして私がある正論を話すと「武田さん、世の中は正義などありませんよ。損得で動くのを知らないのですか」という顔で見られる。そんなことは判っているが、人間社会は人間のそのような欠陥を防ぐために常に正論を唱え、額に汗して人生を送ることに価値を見いださないとならないのだ。そうしないとほとんどの努力は有効に働かないことを歴史は教えている。

 

利権が生じている時には、その説明は必ず虚偽が伴う。だれも「私が税金をもらうために・・・しています」とは言わないからだ。そうすると素直な人は説明通りに受け取るので、混迷してくる。利権は混迷を呼ぶ。

(2008年1月8日 春日井にて)