「温暖化」と「石油の枯渇」が同時にやってきそうな気配である。これを専門家やマスメディアは「混迷の時代」と表現している。

 

 たしかに温暖化を防ごうと思えば、二酸化炭素の排出量を減らさなければならず、そうすると経済成長が止まる。

 

よく「経済成長を続けながら、二酸化炭素の排出量を減らすことができる」と言う人がいるが、それは「日本人の誠」の形ではない。なぜなら、京都議定書の計算の基準年になっている1990年以後、日本のGDPと二酸化炭素の排出量の変化はまるで仕組んだように一致しているのだから。

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上の図は渡辺正先生が日本エネルギー研究所から提供されているデータをもとにお作りになったもので、日本の実質GDPと二酸化炭素の排出量の関係を示したものである。

 

横軸が西暦で縦軸は指数、つまり1990年を基準にしてその後、どうなったかを示している。GDPも順調に増えて2005年には120になっている。また二酸化炭素排出量もほぼ同様に増加している。

 

このようなデータが国から提供されないのが残念だが、1990年を基準としてプロットすると、実質GDPと二酸化炭素の排出量は見事に一致していると誰もが思うだろう。

 

つまり、「経済成長=GDP」と「二酸化炭素の排出量」は、現代の日本の産業構造、民生の状態では、ほぼ完全に比例している。当たり前のことかも知れないが、石油文明の中にいれば「モノの豊かな生活を求めれば、二酸化炭素がでる」ということだ。

 

誤解して欲しくないのは、私も「豊かな生活を送り、環境を破壊しない」ということができればそれに越したことはないと思っている。そんなことは言うまでもなく、多くの人が願っていることだ。

 

 でも、人間というものはそれほど万能ではない。いくら空を飛びたいといっても背中に羽をつけて断崖絶壁から飛び降りればたちまち墜落して死ぬ。人間にとって希望は大切だが、希望を実現するには、現実を直視しなければならない。

 

 だから、専門家は私の考える「日本人の誠」に欠けている。

 

その理由は、専門家は、まずGDPと二酸化炭素の排出量に関するこの渡辺先生のグラフの関係をよく知っていることだ。専門家と名乗る人がこのような基本的な実績をしらなければ専門家とは言えない。

 

だから「経済成長政策を採りながら、温暖化を防止することはできない」と言い、それが「国の政策」によるものだから、個人に呼びかける前に、国に対して辻褄のとれた言動を求めるべきだ。

 

そして、専門家は「GDPを伸ばして、二酸化炭素を削減する」という具体的な方法が見いだされていないことも知っている。少なくも京都議定書の締結から10年を経て、未だに具体的な方法が無いという現実をそのまま素直に認めなければ誠意ある専門家とは言えない。

 

 たしかに、素人を騙(だま)すことはできる。

 

 多くの日本人は渡辺先生のグラフを知らないし、また、もしかするとGDPを伸ばしても二酸化炭素を削減する方法があるかも知れないと思っているからだ。それは願いに近いので、人間はついつい信じたくなる。

 

 でも、「日本人の誠実さ」をもった専門家は心が苦しくて、そんなことは言えないだろう。それなのに残念ながら、「経済成長と温暖化防止を両立させることができる」と発言している専門家もいる。

 

 「日本人の誠」を失った東京市場は魅力がない。