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 オスマントルコ(今のトルコ共和国)の軍艦エルトゥール号が日本を訪れ、その帰路に台風に夜暴風雨で遭難したのは、1890年(明治23年)916日のことであった。

 

強風に煽られて紀伊大島の樫野崎の岩礁に座礁したエルトゥール号は浸水したのち水蒸気爆発を起こし沈没した。

 

多くの軍人が海の藻くずと消える中、生き残りのトルコ人が灯台を頼りに断崖にたどり着き、救助を求めた。灯台守は直ちに大島村(串本町)の住民たちが総出で救助を行った。

 

もともと、村には食料も少なく貧しかったのに、衣類を提供し、村民の命綱だったニワトリや卵まで使って介抱した。そのおかげで587名が犠牲になったが、69名の命が助かった。

 

遭難の連絡を受けた明治天皇は全力での援助を命令し、105日には日本海軍の「比叡」「金剛」の2隻にトルコ軍人が分乗してオスマントルコの首都イスタンブルに生還することができた。

 

日本人が外国人を遇する心、困難を極めている人に救いの手をさしのべる行為がまさにそのまま現れている。江戸末期に日本にきた多くの外国人は「なぜ、日本人は利害を顧みず、親切にしてくれるのか?」と不思議がっているが、私たち日本人にはその気持ちは良く理解できる。

 

日本人は損得を考えない。困っている人がいれば、その人が外国人であれ、誰であれ、というより日本人の心では外国人であればあるほど、助ける。それが後になにになるかなどケチなことは考えない。

 

それが日本人の誠実さというものだ。

 

この事件のおよそ15年後に日本は、日露戦争に勝利する。もともとロシアとの戦いに終始してきたトルコ人から見れば、遭難した軍艦は助けてくれるし、憎っくきロシアを破ってくれたということで大いに親日家になった。

 

トルコを旅行すると、トルコ人が日本人にとてもよくしてくれることを肌で感じることができる。これもひとえに私たちの祖父祖母のおかげだ。

 

ところで、トルコ建国の父、ケマル・アタチュルク(写真)はアジアの指導者の中でベトナムのホーチミンなどと並ぶべき、卓越した人物である。その業績は数多く、もともと「アタチュルク」という名前は「父なるトルコ人」という意味で、若い頃の名前はムスタファ・ケマルである。

 

私が彼の業績を一つだけあげるとすると、世界初の女性参政権だろう。すっかりヨーロッパの文化にかぶれていた若い頃の私は、トルコが女性参政権第一号(1934年)であることをしって恥じたものである(フランスは1946年)。

 

もし、日本が少し早く民主主義になり、ヨーロッパの文明に毒されなければ、女性参政権は男女の差別の無かった日本が世界で最初だったかも知れないが、実際はトルコだった。

 

トルコと日本のメンタリティーは似ている。いずれもアジアの誇り高き民族であり、アジアの西と東の違いはあるが、異文化との接点にあって、頑張ってきた民族同士だ。

 

アジアの時代が拓けようとしている。明治以来、日本人は多くをヨーロッパに学んできた。たしかにヨーロッパには学ぶべき多くのことがあったが、いつまでも日本はヨーロッパの子供ではない。

 

日本にはアジアの文明を基礎とした文化があり、それはあるいはヨーロッパ文化を凌駕しているとも考えられる。

 

そこで、日本がアメリカやフランスの歴史や文化を学ぶのも悪くないが、たとえばトルコの文化を学び、日本人の多くがトルコ人とトルコ国家を尊敬するようになって欲しいと思う。

 

トルコはすでにヨーロッパ文化圏に吸収されつつあるかも知れないが、日本が文化面で光り輝き、誇りを取り戻すことができればそんなことは小さな歴史の綾になるだろう。