「私に何ができますか?」という呼びかけは一体、なんだろうか?そして「もったいない」という日本語は国際的にも認められていると言われるが、それはなんだろうか?

 

かつてマリア・テレサという聖女がインドで極貧の人たちが悲惨な環境の中で死んでいくのを救った。「私に何ができますか」と呼びかけるのは彼女のようなイメージがあるのだろう。

 

彼女がインドに設立した家は「死を待つ人の家」という名前がついていて、「死を回避する家」ではなかった。つまり死に行く人の「こころ」を救うのであって「肉体としての死」を救うところではなかった。

 

当時、インドには路上でまるで人間ではないような惨めな最期を遂げる人が多かったが、「死を待つ人の家」で臨終を迎える人は聖女に手を取られ、「さあ、静かにお眠りなさい」と言われ微笑んで死んでいったと言う。

 

 人間は肉体的・物質的存在であると共に、精神的存在である。「こころ」には足し算も引き算もないので、一人を救うことが全世界の人を救うことでもあり、一人の活動が全世界の人の心を和ませることもできる。

 

 でも、物質の世界は違う。物質は「願い」や「想い」とは縁遠いものだ。私たちはあまりに「物質中心・お金中心」の社会にまみれ、心の問題と物質の問題の区別が出来なくなっている。

 

 「資源」、特に石油や鉄鉱石というような資源は「物質」であり、「こころ」より数段、下位の存在である。こころは遙かに上位にあり、計り知れない力を持っているが「暴力」のような力はない。

 

だから清き魂も、粗暴な人間に真正面からぶつかったら、汚れるだけである。

 

 「もったいない」というのは一見してこころの問題のように見えるが、その対象は「物」だ。「物のためにこころを犠牲にしなさい」と言っている。

 

 そこが、現代に言われる「もったいない」という言葉の裏に潜まれた二重人格性である。それと同じように「あなたに何が出来ますか?」という呼びかけもまた「悪魔の誘い」のように感じられる。

 

密かに私たちのこころに取り入り、心地よく響き、そして破滅へと向かわせる。悪魔の言葉は怖くはない。むしろ耳に優しく響く。悪魔はそれを知っていて人を破滅に向かわせる。

 

・・・思い起こすことがある・・・

 

 桐生から秋のわたらせ渓谷鉄道に乗って広く空けられた車窓から渡良瀬渓谷を眺めると、それは素晴らしいものだ。

 

(わたらせ渓谷鉄道のホームページの写真を貼りたいので、問い合わせ中です)

 

 「わたらせ渓谷鉄道」という鉄道はかつて足尾銅山からとれる鉱石を運び、それに携わる人たちの生活を支えた。おそらくこの鉄道を敷くときには険しい渓谷だからずいぶん苦労しただろう。でも、銅を運ぶ鉄道だ。貴重だった。

 

 いまでは、乗車した人が車窓の景色を堪能できるようにわたらせ渓谷鉄道では、特別に広い窓をつけている。列車自体も少し時代物で、それがまた独特の風情をなしている。

 

 時代物、つまり「レトロ」がなぜ美しく、最近のデザインがなんとなく人のこころを和ませないかという問いはかなり難しい。真正面から答えるとすると、かつてのデザインは素朴で機能的であり、それが商売一本になってしまった現代より人の心を打つこともあると言うのだろう。

 

 そうでも無いかも知れない。100年ほどまえに作られた駅舎も列車もその数は多いが、その中で100年も使われるということ自体、そこに何かの理由があるはずである。たとえば、性能がよいとかデザインが優れているという類である。

 

 良い物が残る。だから伝統は常に素晴らしい。

 

 現在、地球上に生存している生物は、長い自然淘汰の結果の「勝者」である。勝者にはすでに消えてしまった敗者に比べて、なにか優れているところがある。時の重みというのは、時が過ぎゆくときに選別をすることだ。そしてその選別の多くは冷酷だ。

 

 レトロが良いと感じる、もう一つの理由は「人は自分の幼い頃のものを良いと感じる」という生物としての人間の感覚がある。幼い頃に口にした食べ物はいつになってもなじみ深く、美味しい。そのおいしさは自分の舌が覚えているもので、万人が美味しいわけではない。

 

 わたらせ渓谷鉄道も、そしてその広い車窓から眺めることができる景色も、確かに数10年前のものであり、その映像が私の頭に入り、そして幼い頃の記憶と結びついてよけいに美しく見えるのだろう。

 

 ともかく、わたらせ渓谷鉄道に乗って過ごす一刻(ひととき)は日本人なら誰もが「ああ、良かった」と思うものである。春はまた桜で素晴らしい。

 

 渡良瀬渓谷がこれほど美しいのはその歴史が哀しいからかもしれない。渡良瀬川は美しくが、かつてはヒ素とイオウにまみれて死の川となった。足尾は徳川幕府を支え、古河のドル箱だったが、今では坑道は閉ざされ、すでに歴史の彼方に消えてしまった。

 

 足尾銅山がその最盛期をむかえた時はそれほど昔ではない。一年の産銅量が15千トンを出したのは今からわずか80年前のことである。

 

 最盛期の足尾の人口は38千人、そして今は丁度、その10分の1である。かつて竈(かまど)の煙が立ち上っていたであろう鉱夫宿舎は渓谷鉄道ぞいに廃墟となってその姿を晒している。

 

 とある由緒のありそうな料亭に足を踏み入れてみると、かつての古河財閥の重役や工場の幹部が宴席をはった賑わいがまだそこここに残っている。寂しくなったその料亭の中にいると「夏草や強者どもの夢の後」という風情だ。

 

 ところで、足尾銅山はなぜ、寂れてしまったのだろうか? それは銅鉱山が枯れてしまったからだ。なぜ、枯れたのか? それは「掘りすぎたから」である。なぜ、掘りすぎたのか? それは「競争に負けまいとした」からである。

 

 徳川幕府開府の直後、1610年に開山し、少しずつ銅を掘っていた。上半身、裸の抗夫が鏨(たがね)をふるって銅鉱石を切り出し、それを女が少しずつ背負って地上に這い出る。

 

 銅の産出量は微々たるものだったが、それでも江戸時代の生活からみれば幕府にとって重要な銅山だったのである。地の底をはって生きている抗夫はほとんど地上の生活をせず、短命で酒と女におぼれた日々だった。

 

 生産量が少ないということは貧しいということであり、また悲惨でもある。

 

 明治になり、足尾にも近代技術の波がやってきた。削岩機やベルトコンベアーが設置され、生産量は格段に上がったが、同時に、足尾銅山の銅の埋蔵量もおおよそ判ってきた。

 

「このまま掘り続けると30年」であった。

「このまま使い続けると40年」の石油と同じである。

 

 最盛期で繁栄を享受する足尾・・・抗口には入坑の順番を待つ労働者であふれ、削岩機の響き、ベルトコンベアーで地下から次々と掘り出される銅鉱石、竈の火が絶えない住宅群とにぎわう商店街、そして毎夜のように幹部の宴席が設けられる料亭・・・すべてが順風満帆に見えた。

 

 人間は繁栄に向かって努力する。そんな時が明るい。

 

 私はある時に古河の幹部だった人にこう聞いた。「掘り続ければ、あと30年と判っていたのだから、生産量を3分の1に落として100年、持たせようという考えはあったのか?」

 

「ええ、あったことはありました。でも、当時はすでに銅は国際商品でしたから、もし銅の生産量を減らすとコスト競争にまけて閉山しなければなりませんでした。それに、実際に豊富な銅が目の前にあり、それを掘ればみんなが豊かになるのに、わざわざ少しだけ掘って貧乏暮らしをしろといっても納得性がなかったのです。」

 

 やがて30年先には足尾はその活動を止め、大勢の人が職を失い、料亭もひっそりとしてしまうことが判っていても・・・埋蔵量は確定的で、それを生産量で割れば30年で無くなるのが判っていても・・・現在の繁栄を捨てることはできない、それは足尾の人の総意だったのである。

 

 つまり「繁栄する30年」と「貧乏な100年」を比べて、みんなが「30年」を選んだのだ。