アイヌ人は宇宙誕生の時からずっと戦争をしなかった。このことは何度も考えなければならないことだと思う。なぜなら人間社会には戦争はつきもので、戦争のない社会など私たちは見たこともない。

 

 アイヌ人が戦争をしなかった一つの理由として階級制が発達しなかったことがあるだろうと私は考えている。

 

 アイヌ人が集落を作っているところをアイヌ語で「コタン」という。何となく良い響きだが、アイヌの言語は文字がなかっただけに発達し、とても美しい。コタンには普通、数戸の家があるが、一戸でも離れていればコタンである。

 

 コタンには「ポロチセ」という大きな家(チセ)があり、そこにコタンクロクルと呼ばれる村を治める一家が住んでいる。コタンコロクルに従うものが一般人で、ウタリと呼ぶ。

 

 争いはあった。その理由の大半は生活に必要なものをえる場所の占有権であり、そんな時にはコタンコロクルがコタンを代表して交渉する。時に小競り合いになることがあったと記録されている。

 

 そしてコタンには独り立ちできない人もいるので、その世話もコタンコロクルの主な任務の一つだった。

 

 すでに1000年以上前からこのような弱い階級制があり、それが少しずつ発達して江戸時代には日本名で「乙名」と呼ばれるようになっていたが、階級制は発達せず、せいぜい一階級から二階級ぐらいだった。

 

 アイヌ酋長.jpg アイヌ酋長2.jpg

 

 左がツキノエ、右がチョウサマと呼ばれたコタンクロクルで、それぞれ大きな集落を率いていた。

 

この絵は「夷酋列像」と呼ばれる有名な絵で、松前藩がアイヌ人の蜂起「クナシリ・メシナ蜂起」を鎮圧したときの功労者だったコタンクロクルを描いたものとされる。

 

 作者は蠣崎波響で、松前藩の家老の一人である。もちろん政治的な意図のもので書かれたもので、反抗すると殺されるが、恭順の意を示せばこんなに待遇されるということや、松前藩がコタンクロクルを支配していることも示す意図があった。

 

 最初にこの絵を見たとき私はとてもビックリしたが、それは当時、松前藩主がこの列像を京都に持ち込んだときも同じだった。京都の人はみんな驚き、時の光格天皇もご覧になっている。

 

 後に多くの写本があり、また屏風になっているものもある。その一つを小さい絵だが示しておきたい。

 

 列像屏風.jpg

 

 でも戦いの功労でアイヌ人の将軍を描いたのなら、階級制もあったではないか、戦争もしていたではないか、と思うかも知れないが、その中身は私たちが「戦争」という言葉で呼ぶものとは少し違う。それは追々、文化を整理しながら考えていきたいと思う。

 

【脱線】

 アイヌ人には文字がなかった。だから正確な歴史は判らない。日本やロシアに記録のあるものとアイヌ人に言い伝えでつなげていくしかない。

 

 でも、この列像の絵でも、アイヌ人はこれを「何かを有利にしよう」とか「これで得しよう」とは考えてはいなかっただろう。それに対して松前藩は自らの威光を示し、江戸や京都に対しては自らの立場を強化するのに使った。少しでも得をしたい、何とか自分が偉くなりたいという心はどういうところから出てくるのだろうか?なぜアイヌになくて和人にあるのだろうか?