記者会見は得意と言われ、難しかった小泉内閣の官房長官を経験した福田総理大臣が就任後、初めてやや失敗の発言をしたと言われる。

 

 この夏の参議院議員選挙で自民党大敗の原因の一つになった年金記録紛失問題。実に不思議な事件で、銀行が国民から預金を預かり、国民が通帳を無くしたら銀行の方には記録がないということと同じだから、あまりにも常軌を逸している。

 

 それがたとえ古い古い政府の責任に属するものがあっても、国は国。政府は国民に責任を果たさなければならないのは当然だ。

 

 そこで、自民党は参議院選挙で「最後の一人まで年金をハッキリさせます、責任を持ちます」と公約した。公約する限りはそれを守るのが日本人の誠というものである。

 

 ところが、厚生労働大臣が「どうも、1000万人分が不明。しかたがない」というような発言をした。国民が期待していた大臣だけにその反動でみんなひっくり返ってしまった。

 

 それに輪をかけて、福田総理大臣が「公約違反と言うほどの大げさなことではない」と言ったからたまらない。公約とは「公の約束」だから個人の約束より重い。

 

 「最後の一人まで」と「1000万人分が不明」という区別がつかないというのだからかなりの数字音痴。倫理感覚としては守屋前次官と同類だろう

 

銀行が「預金が判らなくなったが責任を持つ」と宣言するのは「私約」だし、赤福が「今後は正しく表示します」というのも「私約」だ。それでもその約束を破って「約束と言うほど大げさか」などと言われたら鼻しらむ。

 

 礼・誠・義・・・みんな日本人には大切なことだ。そして人間には誤りもあるし、できないこともある。現代だから「腹を切る」ということも穏やかではない。

 

 でも、せめて責任は取るのが日本の政治家であるし、公約が守れないなら辞任が筋だ。大幅に譲っても解散総選挙だろう。つまり公約をやりかえなければならないからだ。

 

 いつごろからか判らないけれど「ギリギリの言い訳ができればそれでよい」という世間になった。かつて、日本には「悪いことをして無罪を主張する」と言うことはなかった。お白州に引き出され、本当に自分がやっていたら「恐れ入りました」というのが筋である。

 

 人間、だれもそれほど偉い人はいない。生まれてこの方、悪いことが全く心に浮かばないという聖人は数が少ないだろう。私は深く反省することが多い。

 人間はみんなそうだ。それが判っているから罪人でも同情し、罪人の方も白状する。それが人間というものだろう。ヨーロッパの文明はそうではない。二重人格を認める文化である。

 そういえば・・・ 埼玉の消防士は火事で必死に助けを呼ぶ若き女性をまるでからかっているような電話の応対をした。私はそのテープをテレビで聞いて、ああ、可哀想に・・・からかわれて最後に切るときも「すみません!」と言っている。ああ、なんということか・・・

 その時にはただ可哀想だとその犠牲になった女性の人に想いをはせた。でもその後、埼玉県が「訴状を見てから回答する」と言っているのを聞いて、ああ、人間ではない人がいると暗い気持ちになった。

 おそらくは、ここからは少し推定が入るが、ここまで来るには、埼玉県は遺族からの要求があって録音テープを出し、ことの次第を知っているあろう。だからあらかたの状況はしっているはずだ。今更、訴状がどうのということはないだろう。

 「ここで言わない方が責任が軽くなる」などと考えず、日本人の誠で応対して欲しかった。犠牲になった女性が報われない。

 首相が襟を正し、大臣が責任を取り、知事が県民の為に政治をする、それをしないなら年金事務員の怠慢も責められない。でも、そんなことのない、日本の誠の社会を取り戻すために、微力であろうと何だろうと、頑張りたい。

(コーヒータイムは気軽に書いていますが、読者の方からアドバイスがあり、少し変えました。)