明治維新のときに日本人はヨーロッパ文明に接して衝撃を受け、一度、自信を失った。そして、戦争に敗れてもう一度、日本人としてのプライドを捨てた。

 

 すべてはヨーロッパが優れている、すべてはアメリカが進んでいる、それはもう抵抗が出来なかった。戦後の混乱期にはチューインガム、チョコレート、GIブルースが幅をきかせた。アメリカなら何でも良かった。

 

 環境の時代になるとドイツを信奉した。日本よりドイツの方が一人あたりの資源量もゴミの量も多いのに、「環境先進国・ドイツ」と言われ「ドイツがリサイクルしている」というと抵抗は出来なかった。

 

 ヨーロッパは「個」の文化である。「個の確立」は教育の第一の目的であり、「あなたは他の人となにが違うのですか?」という問に終始している。だから日本でも「個」を確立すること、個性を大切にすること、集団の中に埋没しないこと、競争をすることが善とされた。

 

 家庭という集合体を大切にするより個人個人であり、地域という集団より個人であり、職場でもなんでもかんでも「個」を主張すれば近代的であり、進歩的とされた。

 

 でも、ヨーロッパは常に生臭い。それはギリシャでも、ローマでも、中世の宗教戦争はもとより、近代に至るまで殺戮と他民族を圧迫してきた歴史である。

 

 なぜ「個」が「衆」に上回るのだろうか?日本の長い歴史と文化、アイヌの文化、それらとヨーロッパの文化を比較すると、ヨーロッパの文化が劣っていることは間違いない。

 

 イエス・キリストは尊敬すべき人物だが、キリスト教の歴史はやはり闘争的である。それに比べれば仏教は遙かに平和を愛し、個を大切にすると共に自然や他の民族も尊重する。好戦的ではない。

 

 アイヌは狩猟民族である。それでも和人よりさらに穏やかだった。アイヌは格別に衆を重んじる。それは自然との調和にはどうしても必要だからだ。

 

 人間は個の確立が大切というのは本当だろうか?それとも日本古来の倫理である「和をもって尊しとなす」のが正しいのだろうか? 「和」には人間だけではない、生きとし生けるもの、そして大自然もまたその範囲に入る。

 

 人間が集団性の強い動物で一人では生きていけないという現実、個を尊重したヨーロッパの歴史が血塗られたものであり、近代の300年は世界中のあらゆる国を植民地にしてそこに住む住民の富を収奪したばかりでなく、命さえ軽く扱ったという事実から目を背けることはできない。

 

 集団性の強い人間にとって「個」より「衆」が前にあるのではないだろうか。「衆」を大切にする人を逆手に取るのは問題外として、逆手に取られるから衆より個、という論理が正しいとは思えないのである。

 

つづく