1952年にロンドンでスモッグが発生し、12月だけで4000人、翌年の3月までの犠牲者を合計すれば1万人の上った。人類が始めて経験した「人間の行動がもたらした大災害」であり、公害の原点でもある。

 

 1953年に一人の女の子が最初の診察を受けた水俣病は公的には2000余人であり、その被害者1万人から数万人と言われる。悲惨な事件であり、人々に与えた影響は大きい。

 

 かつては大きな被害の出るものが「環境破壊」であり、被害が出ない場合は、少し心配しても環境破壊とは言わなかった。「心配事」はこの世に無数にあるが、それは「注意すべきこと」であって、それ以上のものではなかった。

 

 ところで、現代の社会では、最大の犠牲者がでるのは交通事故で、一年の死者7000人、負傷者120万人に上り、第二番目の環境破壊は火災で犠牲者は2200人である。

 

 また、積雪では雪下ろしで12月におおよそ70人程度の人が屋根から落ちたり、雪に埋まって死ぬ。いずれも人間の活動が原因となっているという点では人為的に発生するダイオキシンなどと同じく環境破壊と言えるものである。

 

 ところが、世界を震撼させた狂牛病がヨーロッパを中心に150名の犠牲者で、日本ではゼロである。熱中症では数10名。ダイオキシンはそもそも患者さんがゼロという状態だ。

 

そして食品添加物での犠牲者は戦後、甘味料のズルチンそのものでお饅頭をつくって食べた一家が犠牲になったに止まる。

 

 もちろん、快適な生活の為には死ぬに至らなくても、気持ちが悪くなるとかジンマシンがでるだけでも問題だから、犠牲になる数で環境破壊の程度を考えるのも十分ではないが、まずは死んではいけないから、犠牲者の数で環境破壊の程度を決めるのもそれほど悪くはない。

 

 その意味では、世界でもっとも大きな環境破壊は食糧問題だ。

 

 日本は食糧を60%輸入して、30%を食べ残しているぐらいだから餓死者は少ないが、世界では8億人が飢餓状態にあり、毎年1500万人というとてつもない人が飢餓で死ぬ。

 

 被害のでる環境破壊と、被害者のいない環境破壊がこれほどハッキリしているのも奇妙である。そして現在の環境破壊とは「被害者の出ない環境破壊だけを取り上げたもの」であることが浮き彫りになる。

 

 なぜ、被害の出ない環境だけが問題になり、交通事故や火災、積雪、そして世界的には飢餓・・・このような現代の重大な環境破壊が問題とされずに、ゴミ問題、ダイオキシン、温暖化、はてはクールビズとかレジ袋などが「環境」として取り上げられる理由はなんだろうか?

 

 交通事故は環境破壊ではないという人もいるだろうが、「人間が原因し、普通の生活をしていても犠牲になることがある」という「環境破壊」の定義から言えば立派な環境破壊である。

 

 火災は昔からあったが、最近の犠牲者は、電気器具からの出火、住宅の高層化、交通手段の密閉化がその原因となっているから、これも環境破壊に入る。

 

 温暖化によって熱中症で犠牲になる人だけが問題になるが、雪下ろしで死ぬ人の数の方がかなり多い。そして雪下ろしで犠牲になる人はほとんどが男性の高齢者であり、ここにも社会問題が見える。

 

 犠牲者を伴うものが環境破壊として取り上げられない一つの理由として、「犠牲者がでるものは退治が難しいから環境省の守備範囲に入れない」ということがある。

 

 ダイオキシンが良い例だが、ダイオキシンでは犠牲者がでないから、何をやっても成果があるといえばあるし、無いと言えば無い。規制値をどこに決めてもまったくその効果が無いのだから、雲をつかむようで結論がでない。

 

だから、「やること」だけが問題で、「その結果はどうなっているか」は問題にならない。その結果、これほど国民的にリサイクルをしても「リサイクル率」が一度も発表されていないという奇妙なことが起こっている。

 

 環境に関心がある人が等しく真剣に考えなければならないのは、世界という意味では、「地球環境に優しく」といって1500万人の餓死者に目を向けず、国内では「一人が死んだ」ということを大きく報道して「7000人の犠牲者」である交通事故に関心を寄せない理由にもなっている。

 

 自動車事故が問題にならないのは、自動車で儲けている人が多いからと言われる。そして「国民にギリギリのウソを言っても国民はそのうち忘れる」という話はなかなか無くならない。

 

利権と利益、それに誘導された私たちの判断はかなり正常な状態から離れつつあるように感じられる。

 

 つづく