最近ではあまり言われなくなったが、リサイクルが始まる頃、盛んに「静脈産業」という言葉が使われた。

 

 厳密な意味で「静脈産業」がなにかを定義されたことはないように思うが、人体の「動脈と静脈」の連想で、天然資源から工業製品を作るのが動脈産業、廃棄物から資源や製品を作るのが静脈産業という感じだった。

 

 単純な廃棄物処理業などもあるいは静脈産業に入るのだろうが、「夢のある静脈産業」という点では、単に廃棄物を処理して処理場に格納するというより、積極的に廃棄物を活用することを意味していた。

 

 でも、たとえば鉄鉱石も石油も石炭も、人間が使っている多くの資源は大昔の生物が出した廃棄物だから、そうすると動脈産業も静脈になってしまう。

 

だから学問としては「先進国が大規模工業の製造過程ででる廃棄物、および大量に消費されてでた廃棄物を有効に利用する産業」というように定義できるのだろう。

 

  さらに、もう一つの曖昧さもハッキリしておいた方が良い。それは「廃棄されるものを有用なものに変えることができるか?」という問である。

 

 仮に産業が厳しい原単位管理をして、エネルギーも資源も厳密に使用していたとする。たとえば鉄鋼会社は鉄鉱石を有効に使い、副産物も自社で使うか、あるいは関係会社でトコトン利用したとする。

 

  「原単位」とはある製品を作るときに使う原料やエネルギーの量であり、産業は収益を上げるために原単位を極限まで下げるのが普通である。

 

 だから企業が捨てる廃棄物を資源として使うためには、1)その企業より優れた技術を持っている、2)安い労働力が使える、3)どこからかお金をもらう、の3つのうちの一つだろう。

 

 現在の日本の産業は世界一だから、なかなか1)を満足することは出来ない。また2)で勝負をすると劣悪産業になるか、あるいは発展途上国に産業が移行する。またどこからかお金をもらうことを最初から考えたら夢のある産業にはならない。

 

 だから、産業関係では静脈産業は成立しないだろう。

 

 もう一つの廃棄物は家庭や事務所からでるものである。これらの廃棄物は、台所のゴミ、紙、プラスチック類、金属類、ガラス類、家電製品、自動車、家具などである。

 

 これらのものを「産業化」しようという歴史的な試みはないので、新しい着想があれば産業として成立する可能性はある。ただ、量的な問題が残っている。

 

 日本の産業に使用する資源は一年で約20億トンである。つまり「動脈産業」が使用している資源量は20億トンということになる。

 

 これに対して家庭や事務所からでる廃棄物は一年で約5000万トン、これは動脈産業が使う資源の40分の1だ。

 

 だから、もし家庭から出るゴミ(一般廃棄物)を全部、原料として使えても産業としては現在の産業の25%の規模の産業が出来るに過ぎない。このような仕事は社会的には大切であることは納得できるが、もし一般廃棄物しか利用できなければ「夢のある静脈産業」にはならないだろう。

 

 それでも一応、一般廃棄物を原料とした静脈産業を考えてみる。

 

 家庭からでるゴミで、現在の技術で再利用が可能なものは、紙、金属類に限定されると考えられる。これについてはすでに多くの根拠を示しているので、ここでは紙と金属類に限定して話を進めたい。

 

 紙はすでに「ちり紙交換」という形で産業化していた。雇用者の数は多く、零細企業が多かったが、それでも生業として、あるいは失業したときの臨時の職業として、資源の有効利用という意味で、存在価値はあった。

 

 ちり紙交換方式の紙のリサイクルシステムが現在のような法律に基づくリサイクルに変わって有利になったのは古紙の市況が安定したことによる製紙会社の収益の安定化である。

 

 従って、紙のリサイクルは「静脈産業の成立」という意味はないことが判る。

 

 金属類は、鉄、銅、アルミ、貴金属が主たるものである。これらのものはもともと有価で取引されている。つまり「金属くず」は比較的価値があり、法律によるリサイクルが始まってから新しい技術が誕生したわけではない。

 

 従って、金属類のリサイクルも「静脈産業の成立」という意味はない。

 

 産業廃棄物、一般廃棄物のなかで普通に考えると意味があった紙と金属類は新しいシステムが有効とは言えず、他のものは静脈産業の成立が困難である。

 

 ここまで絞り込んでくると、静脈産業が対象とする原料は、

1)  家庭からの生ゴミ

2)  プラスチック類やガラス類

3)  家電製品や自動車

ということになる。

 

 人間が生活する社会だから、昔から回収を業とする人がいるように、ある程度の廃棄物がでて、その産業が存在するのは確かだが、家庭の生ゴミや家庭からでるプラスチックやガラス類が「日本の未来を築くことができる産業の一つ」に成長する可能性はない。

 

 つまり、全国各地に税金で作られたエコタウンなどの「静脈産業」は成長の可能性のない産業と位置づけられる。

 

 仮に、バブル崩壊後のグローバル化された日本の産業の中で技術力やビジネス力のない中小企業などを救済するためにのみ、新しく静脈産業という用語をつくり、そこに税金を投入した場合、それは「失業対策」に変貌する。

 

 しかし、それは適切ではないだろう。

 

 国の政策はご都合主義で進めるのは当然だが望ましくなく、失業対策事業は失業対策として、また中小企業対策は中小企業局が中心となって行うべきであり、実質と異なる表面上の理由を構えるのは事態を混乱させ、税金の使途を不明確にする。

 

 また、静脈産業がその対象とするものが定まり、論理的にも成立するようになってから産業が興るのが適切であり、官製でかつ机上の事業は、これまでも「大型工業団地、大型レジャーランド」など多くの犠牲を出している。

 

当然だが、基本的には新規技術と社会のニーズに伴った健全な収益のある事業として行うべきであろう。

 

 ところで、「環境事業は収益が上がらない」と言われる。その理由は、価値の低いものを取り扱うからであり、価値があれば収益は上がる。社会的に価値がなければ、できるだけ安価に処理することが求められるから、リサイクルは「単純に燃焼するより費用が安い場合のみ実施する」という単純な基準を設けるべきだろう。

 

論理的、合理的な目標設定がリサイクルの発展自体にも有意義なことである。

 

 かつて「石炭を掘っているのではなく、税金を掘っている」と言われた日本の石炭産業は決して発展しなかった。

 

 現在のように焼却すればキログラム40円ですむものを、400円かけて分別回収し、税金を運んでいるようなリサイクルには将来はないと考えられる。

 

 感情論を押さえて、冷静に将来を見たいものである。そこにこそ「夢のある産業」が生まれるはずだ。「夢」は堂々としており、決して事実を誤魔化す必要はない。

 

つづく