環境問題では専門家や政府の不誠実は目に余るものがあるが、産業界でも、「赤福餅、白い恋人、血統つきのトリの偽装」などが連続している。

 

さらに社会保険庁に始まり、防衛庁、そして厚生労働省のウィルス注射事例隠しまで、「これが日本人か」と疑うような事件が続いている。

 

私はなにを考えるにも「日本人の誠」を軸にしている。それは誠実さを失った社会ほど生き甲斐を感じることができない社会はないと思うからだ。

 

 そして環境問題も「日本人の誠」を軸にしている。だから、「焼却してもリサイクル」、「外国へゴミを出してもゴミゼロ」などというのは一切、真面目な環境の行動からは省いている。

 

 ところで「日本人の誠」というのはどういうものだろうか。この問いの中にこそ私は現代の日本において「生きること」の本当の意味が潜んでいると思う。

 

 日本人の誠の第一回を書くに当たって、渡辺京二さんの「逝きし日の面影」という本から引用させていただく。この渡辺さんの素晴らしい著作は、最初、週刊東洋経済に別の名前で連載されていた。東洋経済といえば経済を扱うところだが、東洋経済には遊び心もあり、経済にはそれも必要だろう。

 

……リンダウ。長崎近郊の農家にて。1858年。

 

「火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、直ちに男の子か女の子が慌てて火鉢を持ってきてくれるのであった。

 

私が家の中に入るやいなや、父親は私に腰をかけるように勧め、母親は丁寧に挨拶をして、お茶を出してくれる。

 

家族全員が私の周りに集まり、子供っぽい好奇心で私をジロジロ見るのだった。……幾つかのボタンを与えると、子供達はすっかり喜ぶのだった。

 

「大変ありがとう」と皆揃って何度も繰り返してお礼を言う。そして跪いて可愛い頭を下げて優しくほほえむのだったが、社会の下層階級の中でそんな態度に出会うのは、全くの驚きだった。

 

私が遠ざかって行くと、道のはずれまで送ってくれて、ほとんど見えなくなってもまだ「さようなら、またみょうにち」と私に叫んでいる。あの友情のこもった声が聞こえるのである」

 

 見ず知らずの人にお客さんとして心のこもった接待をする・・・これも私の「日本人の誠」に入っている。そのお客さんが自分たちにとって「損か得か」ということを考えずに、ともかく遠方から自分の家をわざわざ訪ねて、人生のひとときを使ってくれた、そのことに対して人間としての礼を尽くしている。

 

 そんな日本人であったが、最近ではビジネスでも、政府の役人の接待でも、「得をするから歓迎する」、もっと酷いときには「下心があって接待する」ということが多い。損得なく歓迎するのと下心があって接待するのは天と地との違いである。

 

 防衛庁次官のゴルフ接待はもちろん、日本人の誠に真っ向から反するものであり、それが日本というかけがえのない国土を守る軍隊の中心にいた人の行為と思うと情けない。

 軍に所属する人はせめて清廉潔白であって欲しい。国のために命を投げ出してくれるのだから。 

 

 ある時、もうそれは30年ほど前だが、私は北海道の函館の知人の家に寄らせていただいた。親しい人ではあったが、私が彼に何が出来るということが無いことも確かだった。

 

 でも、彼は「わざわざ函館に」と言って最大限の歓迎をしてくれた。忘れられないのは長万部の方にドライブに行ってくれ、そこでカニの食べ方を教えてくれた。海岸で食べたあの味は私の舌が覚えている。

 

 彼は今、どうしているだろうか?張り切りボーイの彼のことだ、きっと函館で成功しているに違いない・・・私はお客さんを遇するに誠にある人にあうといつも彼を思い出す。

 

 教育するほど人は悪くなる、偉くなるほど悪くなる、と教育者としての私がいつもガッカリするのは、「偉い人の汚れた接待」と、渡辺先生のご本の中で外人が表現している「下層階級の心温まる歓迎」はその一つの例である。

 今ではこの外人が使っている「下層階級」という用語を使うのをはばかれれるが、実は賛辞なのではないか?

 

 額に汗して働く人、心温まる人、自分の欠点を知っている人、人間として尊敬できる人、日本人の誠を持っている人・・そのような人はいつも市井にしか見ることができない。

 

 日本人の誠を守りたい。それが一番大切な環境だから。