高等学校に入った途端、病気になって夏までの一学期は最後の一週間しか学校に行けなかった. その後、また別の病気で手術をした。
まだ高校生だったこともあり、気力が無かったわけではなかったが、体は言うことを聞かないし、青春のつらさが毎日にように襲ってきた。
それからしばらくして、大きな夢を抱いて会社に入った途端、また病気がでて、7月の中旬から8月一杯、欠勤した。欠勤は一ヶ月だったが、これからという自分にとってショックでなんとかして会社に行こうともがいたが、どうしてもダメだった。
その頃、私は会社の寮に入っていたのだが、そこを一時的に引き払い、自宅に帰った。入社したばかりの自分にとっては、家に帰るということは敗残兵のように感じられたものである。
私が病弱だったので、寮のおばさんは好きな酢タコを食べさせてくれた。数年は何とか這うようにして出社し、夕方には疲れ切って帰った。土日は立ち上がる気力もなく、そのまま寮の布団の上にいた。
そんな私が長い勤務ができるようになり、そして大学に移り、さらにしばらく経ったある時、私の教え子が次のような「想い出」を書いているのを知った。
感慨深かった。あんな私だったが、ここまで元気でやってこれたという思いと、波風はあり、幸運と不幸が次々と襲ってきたが、それでも「仕方がない」とあきらめてきた人生を想い出した。
不運もあったし、悔しいこともあった。でも、それは「対人関係」だけのことであり、研究や教育、そしてその他の「仕事自体」は「その中の人間的要素を除けば」なにも起こっている訳ではなかった。
「仕方ないものは仕方がない」・・・それは後に「向から来るものは拒めない」という私の確信になったし、人間関係は「誰もが自分が可愛いし、他人はそれほど自分に興味があるわけではない」ということに理解にもなった。
赤ちゃんの時には動くものなら何でも笑う。小学校の頃には「はいっ!」と手を挙げた。中学校の頃には皆勤賞をもらいたくて風邪をおして登校した。はつらつとしていた小さい頃、その頃には人のことなどを気にしていたわけではない。
人は成長し他人が気になり、他人と比較し、他人が言うことが気になり、そして、その他人によって自分の溌剌さを失う。他人が悪いと言いながら、他人の方が運がよいと悔しくなると、それで自分が親からもらった「命の輝き」を失う。
人生の経験は、私に「人生の目標」も「仕事の目標」も持つことが問題なのだということを知るようになった。教えてくれたのは私の近くにいた人、そしてお釈迦様とイエス・キリストだった。
他人と自分の比較もしない。ただ、毎日を一所懸命すごし、一日が終わったら忘れる。自分は生きているのだし、ご飯も食べられる。それで十分だ。
そしてそのことを私の別の教え子も判ってくれていた。 目標は大切ではない、目標が必要な時もあるが、それは苦しい毎日を乗り切るための手段に過ぎない。本当に大切なのは今日である。