10年ほど前のことだが、リサイクルという新しい方法が社会でも学会でも盛んに議論され、多くのお金が流れ始めたころだった。私はこの新しい方法が、従来の学問・・・資源論、分離工学、材料工学、熱力学などとどのような関係にあるかを検討していた。

 

 すでに熱力学の分野では槌田先生を中心としたグループがこれまでの学問的原理に反するという報告を出されていたが、日本学術会議を中心とした主要学会ではリサイクルに対して矛盾は指摘されていなかった。

 

 ところで、私の生涯を通じた研究を一つあげよと言われたら、「材料の劣化と回復」と答えるだろう。金属にせよ、セラミックスにしても、またプラスチックや繊維、それに生物が使用している肉や皮も、何かの機会に研究の対象になったし、常にそれは私にとって魅力的だった。

 

 材料は使えば壊れていく・・・それは人間が使う「材料」が「自然にある形のまま」ではないからだ。鉄は酸化鉄としてこの世に存在するが、人間は「人間で言うところの不純物」を除き、「還元」しないと鉄板としては使えない。

 

 お茶碗は土を焼いて固めなければならないし、プラスチックは生物の死骸を高分子というものに変えなければ用途はない。鉄板にしても、お茶碗にしても、プラスチックにしても、どれもこれも人間が使う形には無理があり、だから劣化する。

 

 人間が使って崩壊したものを余り無理をせずに元に戻せるのは、貴金属とアルミニウムぐらいなもので、鉄でも怪しい。かつて使用量が少なかった頃は「くず鉄」はかなりの価値があったが、一年に6700万トンも消費し、銅や錫が混入してくる現代では、再利用には制限がある。

 

 もっとも「おまえは貧乏人だから、俺が使った後の質の悪いもので我慢しろ」と言えば何とかなる材料もあるが、私はどうもそのような考え方で学問をするのは気が進まない。「中国人は貧乏だから、日本人の使った物を輸出して何が悪い」というのもいつも出てくるが、これは最初に話をしてどちらかを決めておかないと議論は堂々巡りする。

 

 さて、10.7シンポジウムには、これまでゴミゼロなどを目指してリサイクルに苦労された方が多く来られていた。その方々は「リサイクルをしてゴミを減らし、資源を節約する」ことが目的だから、私と気持ちは一致しているはずだった。

 

 私は、リサイクル関係の協会に辛い。それは、

「消費者、自治体、業者が一致協力して、リサイクルして資源を節約しよう」

と呼びかけたのに、「回収率」を「リサイクル率」と言い換えて「法律は守っているからなにが悪い」と開き直っているからだ。

 

 このような話は「売れ残りをトラックで持って帰って冷凍し、取り出した日を製造日としても問題はない。一度、店に出したり、トラックで持ち帰ったり、冷凍したのは「製造」の一環だ」という言い訳に似ている。

 

 日本人は「誠実」が命だ。

 

 「ゴミを中国に出してもリサイクル」、「焼却してもリサイクル」というのも同じで、実に誠意がないと私には感じられる。リサイクルっていうのは一体、何だったのだろうか? 自治体が自分が管理するゴミだけを形式的に減らせば良いということだったのだろうか?

 

 リサイクルに努力してきた方は、私と一緒になって「なぜ、回収率をリサイクル率などと誤魔化したのか?」「なぜ、再利用率を公表しないのか?」「なぜ、自治体はリサイクルすると言って持ち出しただけでゴミが減ったと言うのか?」ということをシンポジウムで言ってくれると思っていた。

 

 また、業者はともかくとして、自治体の人は消費者の側に立っていると信じていた。だから「リサイクルとして業者が持って行ったら、それが利用されずに捨てられても、ゴミとしてはカウントしていない」と言ったら、あるパネリストが「ゴミとしてカウントしている」とお答えになった。

 

 これには驚いて、その後、確認したら、特殊な場合は別にして、やはり大半は「捨ててもゴミと計算しない」ということだった。

 実に残念だ。聞いている方が誤解されるのを承知で言うのは誠実ではない。自治体は自治体を守るのではなく、市民を守らなければならない。

 リサイクルに努力されてきた方を「リサイクル派」と呼ぶことがあるが、リサイクル派の方は「リサイクルされている量が公表されず、ゴミは減っていないのにつけ替えられて減っていることになっていること」に怒りを感じず、それを指摘した私を攻撃してくるのはどういうことだろうか?

 

 材料が劣化するということに長く悩んできた私にとっては、参加者が「自治体や業者に裏切られた」という気持ちをもたれないことは、とても理解できないことだった。

 

 リサイクル派の人からまだ攻撃が続いているが、なぜ「リサイクル率を公表しろ」とか、「税金400円かけて集めたものを40円で売って、儲けたと言うな」という方向に進まないのだろうか?