10年ほど前、まだ社会ではリサイクルが始まっていなかったが、議論や研究は盛んだったので、私も資源論や分離工学などを応用して、なにか貢献できないかと理論的な検討をしている頃だった。

 

 ドイツのリサイクルは緑の党などどうも政治的な動きが多く、データがさまざまでわかりにくくて困っていた頃、たまたまフィンランド大使館の方との接触があり、フィンランドでは「リサイクルが普通のように行われている」という話を聞いた。

 

 リサイクルに何も先入観が無かった私は、フィンランドに例があるならそれを勉強してみようとフィンランドの人と3回ばかりシンポジウムをやったり、フィンランドの生活の一部を体験したりした。

 

 その時にずいぶん、多くの方にお世話になり、中心的にご活躍になった先生は今でもさまざまな文化についての研究を続けておられる。フィンランドの方やその先生がおられなかったら、私もあの貴重な経験は出来なかっただろう。

 

 ところで、フィンランドのリサイクルというものを勉強してみると、それまで私が計算していたリサイクルの理論など何の役にも立たないことがわかった。

 

 日本のリサイクルは、ペットボトルや紙の例で判るように、工業が大量に製品を作り、それがスーパーなどを通じて、これまた大量に消費者の手に渡る。そして消費者はそれを毎日消費していくので大量の廃棄物が出る・・・それをリサイクルしようということだった。

 

 私の理論計算も、工業、スーパー、消費、廃棄に至る大きな流れを扱っていたし、リサイクルとは大量に消費され廃棄されるものの処理の方法の一つという前提があった。

 

 ところが、フィンランドのリサイクルというのは全く違うのだ。

 

 まず、今で言えば“地産地消”か“自産自消”というのだろう。林から木を切り、湖から水を引き、自分の小さな牧場から牛乳を得る。そういう生活の中で、たとえば木材を使って自分が作った机も30年も使うとさすがに少し表面が汚れたりする。

 

 そこで、机の表面を削って新しい面を出す。それから更に20年も使っているといよいよ捨てる段になると、適当な部材に変えられれば柵に使ったり、薪を割るときの台に使う。そして最後は薪にして暖炉にくべる。

 

 牛乳の容器をリサイクルしているというので見せてもらったら、20リットルぐらいあるだろうか、その地方で使われている牛乳ビンを町の目抜き通りに置いておいて、それに新鮮な牛乳を詰める。

 

 しばらくしてその牛乳を詰める容器がいらなくなると、日本で言う「中古品」として誰かに使ってもらう。これがその時に私が見た「牛乳瓶のリサイクル」だった。日本の紙パックをリサイクルするなどとはまったく違う。

 

 印象的だったのが林から切ってくる木の取り扱い方だった。チェーンソーで大量に樹木を伐採し、それをトラックに積載して製材所に運搬するという日本の方式とは違い、自分一人で森に入り、そこで適当な木を切って運んでくる。たった一本だ。

 

 それを自分の庭で製材するのだが、「樹皮は手で向かなければならない」ということで、手で樹皮をはぐ実演を見せてもらった。「機械ではぐと樹木の生命が失われる」と言う。

 

 はがした樹皮、加工するときにでる端材・・・それらは丁寧に取り扱われ、完璧に利用される。

 

・・・ああ、これが彼らの“リサイクル”なのだな・・・

と私は理解することが出来た。日本の“リサイクル”と名前は同じだが、内容は全く違う。もともとあまり多くのものを使わない、そして自分が使う物の多くを自分が作る。

 

 自然と共に生き、いわゆる持続性のある生活はあのようなものだろうと私は思い、ますます日本で言われるリサイクルや持続性社会という用語が空しく感じたものである。

 

 環境関係では湖の保全が印象的だった。

 

 フィンランドは湖が多い。生活の排水で湖を汚さないようにかなり注意していたが、方法は近代的な排水設備を作るのではなく、湖から500メートルには家屋を造らないという制限だということだ。会話の中だったので数字などは正確ではないが、考え方としては強く印象に残った。

 

 湖の周りにびっしりと宅地を造成し、そうしてみると湖が生活排水で汚れたので、いろいろな規制をしたり、大規模な土木工事をするという日本の考え方と全く異なるからである。

 

 フィンランドのリサイクルの勉強は私に多くのことを教えてくれたし、その後の日本のリサイクル運動に私が批判的だったのは「なにやってるのだろうか?」という感じがぬぐえなかったからだ。

 

でも、それより更に印象的だったのがフィンランドの教育だった。

 

つづく