少し前に「戦争が終わった将校さん」という随筆を書いた。

 

 若い頃、国の独立を願って軍隊に志願し、我が身を捨てて国を守った。幸い、命永らえて祖国が独立した時に彼は50才だった。そして奮闘努力した甲斐もあって位(くらい)もそれなりに上がっていた。

 

 せっかく身を捨てて努力してきたのに、50才でやることがなくなってしまったのである。「祖国の独立」という目的を失った彼はやがて隣国への侵略戦争を始めた・・・・

 

 それは違う。

 

 仕事には「仕事がうまく行けば終わりになる仕事」と「仕事が成功すればさらに仕事が増える仕事」がある。軍隊というのは前者だ。

 

 軍隊は何の為にあるのかというと平和の為にある。戦争とは平和の為に戦うことだ。だから成功したら失業する。

 

 私の「工学(技術)」もそうである。テレビも無い、冷蔵庫も無い、洗濯機も無い、住む家もない、道路はぬかるみだ・・・そんな時には私の仕事はいくらでもある。安く大量に製品を作り、性能を向上させる。それが技術の役割である。

 

 でも、やがて製品は行き渡り、みんなは満足する。技術はみんなが「文化的で快適な生活」ができるようになればお役ご免である。だから私は失業する。

 

 軍隊や技術だけではない。子供を育てるということはやがて離れていくことを目指すものだ。出世というものはどこかで止まるまで頑張ることである。

 

子供が立派になり、巣立つ時に悲しんではいけない。それがもともとの目的だったのだから。出世できなかったといって嘆いても仕方がない。出世は必ずどこかで止まるのだ、それが係長でも課長でも、そして社長でも。

 

もともと人生とは死ぬために生きる。どうせ死亡率は100%だ。でも、その過程を楽しむのであって、死ぬのが目的ではない。

 

日本を豊かにするのは「働かなくても生活できる若者を作ること」である。だからニートの出現は驚いては行けない。もし若者に一所懸命に働いてもらいたかったら、繁栄してはいけないから、努力してはいけないことになる。

 

次官は「目的の為に」存在するのではなく、「行為の為に」存在する。

 

防衛事務次官(防衛庁事務次官、防衛省事務次官と言わない理由があるので)はご退職の時に「防衛庁が防衛省になったのが一番、嬉しい」と言われた。気持ちはわかる。

 

日本の防衛に日夜、努力してきた隊員たち・・・彼らは昔のように国民に尊敬されることもなく、立派な働きに報いてやることが出来なかった。それが防衛省に格上げされ、せめて長い間の防衛隊員の苦労に報いてやることができた、そういうことだろう。

 

心情はわかる。

 

私もその立場であればそう言ったかも知れない。でも、軍隊が繁栄してはいけない。それは丁度、技術が繁栄してはいけないことと同じだから、私は発言できる。技術はできるだけ「無いほうがよいもの」である。

 

何もなく豊かな生活ができればそれが一番だが、水洗トイレも瞬間湯沸かし器も必要だから私たちはそれを作る。でもみんなが持っていれば技術は後退した方が良い。

 

日本は今、平和だ。しかも日本の自衛隊の予算はイギリス軍とほぼ同じだ。だから、できるだけ防衛省は縮小する方が良い。軍隊は軍隊自体が「自分はいない方が良い」と思うのが正しい。技術は「技術はもともといらないものだ」と覚悟を決めるのと同じだ。

 

隊員の心情を思いあの次官は自らの心を吐露せざるをえなかったのだろうが、もう一つ、高い立場を求めたかった。

 

「諸君、よく努力して日本の平和を確保してくれた。私の在任中、ただ一つ残念なのは、防衛庁を防衛局に格下げできなかったことだ。それは諸君らの奮闘に期待する」

 

人間は自らと自らの仲間に執着を持たないことだ。