伊勢神宮につかえる名菓「赤福餅」の「製造日」はあの赤福餅を製造した日ではなく、解凍した日だった。
この単純なニュースと社長の言い訳は赤福餅ファンであった私もある種のショックを受けた。社長は記者会見で「冷凍保存も製造工程の一つ」と言った。
赤福餅は製造され、一度、トラックで配送され、残って持ち帰ったものも冷凍される。それを解凍した時に、ラベルを付け替え(内部では「まき直し」と呼んでいた)て出荷し、「作りたて」という表示をした。
製造し、トラックに乗せ、残って工場に帰ってきた赤福餅を冷凍し、2週間保存してラベルを付け替えたもの(賞味期限は二週間延びるので、本来の賞味期限と区別するために年月日の後に”・”をつけていた)を「作りたて」と呼んでも問題ないと社長は言っている。
人間の心は自然を汚す。
錦織なす見事な紅葉、雪の中にひっそりと沈む真冬の農家・・・すべては美しいが、その景色の中に密かに人間のドロドロした営みを感じる。こんなに美しい景色も、そこに住む人には人の争いの中でしか見ることができないのだろうと思うことがある。
伊勢神宮に参り、すがすがしい気持ちになって求める赤福餅。この美しく美味しい餅もまた人間の心で汚れ、我々は神の領域から下界へと下る道に導いてくれる。伊勢神宮にお参りしても心は赤福本店のところまでだったのだ。
「白い恋人」といい「赤福餅」といい、お菓子への夢はまた一つ崩れ、ペコちゃんの不二屋から始まったお菓子を汚す人間の営みはまだ止まらない。
ミートホープの社長は「安いんだから何かあるぐらいは判るはずだ」と言い、それを取り扱っていた生協は「なぜ、それが判らなかったのか」という理由をまだ自己総括していないように思う。
おそらくは消費者が悪いのだろう。どんなに誠実と感じられるメーカーでも、どんなに消費者の為に努力しているように見える流通でも、すべてはウソがあると警戒しなければならない。
私と同じ赤福ファンの一人は「そういえば、駅の売店に山積みされている赤福餅を「作りたて」と思うこと自体が甘かった」と私に言った。
人間社会でなにをおいても一番、大切なのは「誠実」だと思う。額に汗して働き、その駄賃だけで満足する「日本人の誠」である。赤福餅の事件で私にとってショックだったのは「冷凍しても味は変わらない」というコメントだった。
味の問題ではない。心の問題だから。
科学がここまで発達した現代。私は学生に科学を教えているが、誠は発達しないのだろうか?そして「誠」というものを教えることはできないのだろうか?教育を担当しているものとしては深く反省し考え込んでしまった事件だった。