10月7日に一橋大学の教室で実施された環境問題に対する「緊急シンポジウム」は私には少し辛いところもあったけれど、全体としてみれば日本の環境の為には良かった。
辛いところは、リサイクルにしてもダイオキシン問題にしても、パネラーは私以外、全員が私の考えに反対なので{1:多数}となり、なかなか一つの答えに一分程度しか許されない短い時間ですべてを説明することが難しかった。
たとえば次のような例があった。
「溶鉱炉では酸化ではなく、還元だ。武田は理解していない」という反論をいただいたが、酸化・還元というのはいつも一対で起こるものである。
溶鉱炉では鉄は還元されるが、コークスは酸化される。鉄に注目すれば還元だし、コークスやプラスチックは酸化(燃焼)である。これを短い時間で説明するのは無理と考えて、私への個人的な非難についてもあわせて釈明しなかった。
シンポジウムが良かった点は、ともかくかなり考えが違う人たちが4時間以上、罵倒することなく、お互いの意見を交換し得たからだ。民主主義は制度としては優れているが、手間がかかるものだと言われるがそれは仕方がない。
民主主義というのは「自分が正しく、相手が間違っている」と考えてはいけないということだ。むしろ「自分が間違っていて、相手が正しいのではないか?」と思って話し合いを続けることだから。
もし、環境問題でも、原子力の問題でも、今回のように自らの主義主張を少し後ろにまわして、相手の話を聞くようにすれば、ずいぶん多くの人の理解が進むと思う。
だから私は10月7日のシンポジウムは「歴史的第一歩」と思うし、また開催に尽力された杉本さん、服部さんに深い敬意を表するものである。
さて、このシンポジウムでご質問があり、また未解決の問題についてネットを使って今後、数回にわたって解説などをしていきたいと思う。今回は全体のコメントを述べておきたい。
考え方がかなり違う人と話をする時に、二つの心の持ち方がある。一つは「最初に同意できるところを探す」という方法であり、第二に「違うところを強調する」というやり方である。
どちらが優れているかは不明だが、日本のこの種の討論会は「違うところを強調する」という例が多く、今回も私の「批判」をする方の多くが「違い」を強調された。それで喧嘩になってしまう。
私は第一の方法、つまり「同意できるところ」を探る方法を採った。
リサイクルでは
「貴金属やアルミはリサイクルに適しているが、お茶碗は誰もリサイクルしない。ペットボトルはどうなのだろうか?」
という問いかけが私のプレゼンテーションだった。これなら観念的にリサイクルを議論して紛糾することも少ないと考えた。
ダイオキシンの場合は、その毒性について研究者の間で議論があるのだから毒性の議論を詰めるのではなく、
「ダイオキシンは史上最大の毒物でそれだけに注意しなければならない」
ということか
「多くの毒物と共に気をつけていくようなものか」
ということを提言した。
討論会が終わった後、結果的にどちらが良かったのかな?と考えてみたが、それよりともかくこのような試みを何回かすることが大切だろうと思った。とにかく印象的だったのは、参加者のほとんどが真剣だったことである。
特に若い方もずいぶん多く参加したし、発言も積極的だった。それも私はとても良かったと思う。
ところで今後、このようなシンポジウムが行われるとしたら、少し改善点した方が良いと思ったことを書き留めておきたい。
すでに討論会の中でも強く発言したことだが、「討論会ではテーマになっていることを議論し、その人の属人的なことには触れない」という原理原則を貫きたいということだ。
つまり、気をつけなければならないのは「女性だから」とか「田舎出身だから」とか、「どうせ、お金儲けのためにやっているのだろう」というようなことを決して言わないことだ。
せっかくの討論会が暗くなる。
第二に、見解の違う人のいっていることを「間違っている」と言うのではなく、「自分のデータや考え方と違う」と言った方が良い。もちろん時間がないところに発言されるフロアーからは難しいが、パネラーはそれが大切だろう。
もともとこの種の討論会は「違う意見の人が、それぞれの違いを正しく認識する」ということであり、「違う」ことは討論の前提だ。それを最初から「間違っている」と言うと、討論は暗くなる。
一つ一つのデータや考え方の真偽は短い時間で明らかになるものではない。ただ、直接、話を聞くことで少なくとも「どういう考え方で整理をしたものか」というのを理解することができる。
そして第三には、もともとデータは人によって違うというのが前提である。日本人は素直な性格を持っているので、「お国の発表は正しい」と思っているが、それならマスメディアも学者からの発信も不要になる。
むしろ「お上のデータは怪しい」ぐらいのスタンスが事実を明らかにしていく時には必要だろう。
いずれにしても、「相手を理解しよう」とするか、それとも「間違いを指摘しよう」とか「罵倒しよう」とするか、それがこのような討論ではポイントで、どんなに意見が違っても和気藹々の中で真剣に討論したいものだが、この不可能に思われることが出来たという点で奇跡的でもあった。