驟雨、すでに聞き慣れない言葉の一つになりつつありますが、それまで曇りがちではあってもそれほど雨の心配の無いと思っていたら、一点、にわかにかき曇り、たちまちの内に激しい雨に見舞われることがあります。

 

そんな時、昔ならまず走り出して軒下に走り込みます。そしてしばらく雨宿り。

 

突然のことでもあり、軒下には見ず知らずの人ですが、それでも「同じ不幸」を背負った運命の人が集まるのですから、話も弾み、ひとときの時間を過ごすことができます。

 

 イギリスの戯曲家、バーナードショーの作品を思い出します。

 

ともかく、いつ雨がやむかと聞かれてもいつと答えることはできませんが、そうかといって長い時間では無いことを経験的に知っているというきわめてアナログ的な時間を過ごし、もし、同じ軒下に見知らぬ人がいたら、互いにひとときの不幸を嘆き、短い間の人間関係を楽しむことができます。

 

最近、そういう経験も少なくなりました。一つは携帯用の雨傘が発達したこと、第二に建物に「軒先」が少なくなったこと、そして、天気予報が当たるようになり、かくして雨に濡れるチャンスが失われたのです。

 

でも、それだけ私たちの生活は貧弱になり、ストレスがたまって来るようです。

 

もし、携帯用の雨傘を持たなければ、不意の驟雨にオロオロするだけです。特に歩いている途中に降られたりすると、駆け足でどこかに駆け込むか、それもできなければ徐々にずぶぬれになって行く自分を実感しつつ、やけになって歩くしかありません。

 

それは11月の寒い日がよく、背広などをキチンと着込んでいるときが一番です。雨は少しもやむ気配が無く、頭や肩、そして足下だけではなく、全身、濡れ鼠になってきます。そのうち、靴がぐずぐずになり歩くごとに音を立て始めます。

 

ようやく家にたどり着き、「やれやれ、ひどい目に遭った!」とつぶやきながら玄関先で靴を脱ぎ、背広を取り、下着一枚になって、ぶるぶる震えながら風呂のガスをつけます。体はシンから冷え、せっかく買った背広はダメになりました。

 

そこまでが地獄です。

 

でも、シンから冷えた体は、待ちに待った風呂に飛び込んだ途端に、じんわりと消えてくれます。冷え切った手足がしびれ、それが徐々にほぐされて行きます。五分後には小さい風呂の中で思い切り手足を伸ばし、私はお風呂の中で生き返ります。

 

背広や靴の被害は取り戻せません。それでも、その一日は大わらわ、塗れた物を片づけたり、愚痴を言ったり、寝る時間まで十分に「ずぶぬれ事件」を楽しむことができます。

 

この「ずぶぬれ事件」は翌日の会社でも、一週間あとの飲み方でも楽しい話題になり、やがて懐かしい記憶に変わります。

 

現代の社会は凹凸が少なくなりました。危険は忍び寄ることはあっても荒々しくはありません。日々、計画された通りに進み、時間の過ぎ方は平坦です。時間が平坦になると、それは記憶から遠ざかり、人生を短くします。「ずぶぬれ」は現代の日本でできる感動の時間なのです。

 

もともと、毎朝、「天気予報を見なければならない」、「今日は・・・なるようだ」とあれやこれやを考えることがストレスをためていきます。

 

 そして、「ずぶぬれ」は別の意味もあります。

 

 我慢して冷たい雨の中を歩いているとき、心はだんだん、謙虚になっていくことを感じます。近くに命令ができる人がいれば「傘を持ってこい」というかも知れませんし、家族が近くにいれば、「早く風呂を沸かしておけ」と怒鳴るかも知れないのです。

 

でも、雨と自然は何ともなりません。じっと、耐えて家にたどり着くこと、それだけがわたしにできることなのです。

 

現代のわたしたちは、恐れるものも少なくなりました。山が怒り、空が割れ、天地が裂ける恐怖はありません。闇夜が自分にそっと近寄り、突然、包み込まれてどこかに持って行かれることも考えられなくなりました。自然からの恐怖は無く、盗賊や大火、そして戦争の恐れもほとんどない時代です。

 

 それはそれで社会の進歩ですが、同時にわたしたちの人生を無味乾燥にする環境も作り、心を傲慢にします。苦しく、汗をかき、惨めになり、そして感動する、そういう人生を自分で作っていく時代であると思うのです。

 

人生には、「普通の時間」というものがあります。

 

朝、顔を洗うとき、淡々と仕事をこなすとき、部屋の掃除をするとき、そんなときは時間は平坦に進みます。しかし、その時でも人間はやがて感動する時間がくるのを待っています。

 

そんな時間を作らなければならない現代はなにかが間違っているのでしょうけれど、それに流されることなく、「ずぶぬれ」が「順調な毎日」より楽しいこと、それを知る時代でもあります。

 

(この作品は一部を改変して収録しました)