素晴らしいシャンソン歌手の歌を聴いた。ほんの数メートルの距離から彼女の透明で美しい声が響いてくる。詩も旋律も、そして歌声も一級品である。

 

 でも、私はあるもどかしさを感じていた。私の心が震えないのだ。彼女の声が私の胸に届かないのだ。

 

少し前だったら、それがどのぐらい前かは判らないが、確かに震えただろう。感激して高ぶった胸を抱えてその日は眠れない夜を過ごしただろう。

 

 でも、あの素晴らしい詩、美しい声が私の魂に響かない。

 

 そういえば、私だけではないかも知れない。すでに日本では小説も絵画も映画も童謡も、そして歌謡曲すら絶滅したように感じられる。かつて島崎藤村に、アンドレ・ジイドに、二十四の瞳、そして野口雨情と中山晋平の波浮の港に流した涙は遠くに行ってしまった。

 

 冬の寒い朝、雪降る故郷にアカギレの手を振り、寂しく故郷を離れた頃、心を慰める歌も悲恋小説もどうしても必要だった。でも、エアコンの中で飽食する生活にはなにもいらない。

 

 私は感激派で涙もろい。そんな私でもこの便利な生活の中で、魂は空虚になったのかもしれない。人間はそれほどすべてを一度にできるものではないから、物を得れば心はそれだけ削られる。

 

 物が乏しい人生はそれなりに辛いが、心を失って感激のない人生ほど哀しいことはない。私はすでに年老いたが、今の青年は燃えるように女性を愛するこころを持ち、全身が震えるような体験はむりなのではないかと心配になる。

 

 いや、それは悲観的過ぎる。魂は静かにしているに違いない。確かに体の中に潜んでいる。

 

そしてやがて粗食を楽しみ、苦労を厭わず、時に寒さに震えるようになった時、私が本来の命を取り戻した時、彼はまた帰って来てくれるだろう。

 

 私の人生はその時にまた鼓動を始める。